menu mokuji 年表
menu data

文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


トップページへ

history title

第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

明治27年に青野重松が創業

 明治27年5月、青野海運の創業者・青野重松(あおのじゅうまつ)が愛媛県新居郡金子村惣開(現新居浜市新田町1丁目)で別子銅山の御用達商人として青野回漕店を創業して以来今年(平成26年)で120年になる。青野海運は重松から二代・市太郎、三代・重馬、四代・正、五代・力と受け継がれ、住友グループの企業城下町・新居浜の歴史とともに歩み続けてきた。内航海運の中でも古い貨物に属する無機化学薬品の輸送を手掛け、無機タンク船のパイオニアとして日本の薬槽船史に残した足跡は大きい。
 青野海運が生まれ、育まれてきた新居浜は住友の銅を源流として栄えてきた。別子銅山(愛媛県宇摩郡別子山村)から出る銅鉱石を採掘・製錬し、銅の積み出し役割を果たしたのが新居浜であった。

住友系企業の源流・別子銅山

 住友系企業は、別子銅山での採鉱・製錬による非鉄金属事業(住友金属鉱山)を源流として、採鉱などで使用する機械の製作・修理を担当する機械事業(住友重機械工業)、坑木や薪炭づくりをする林業(住友林業)、銅精錬用にエネルギーを供給する石炭採掘事業(住友石炭鑛業)などが派生した。さらに銅を基盤にした金属加工業(住友金属工業)、そこから派生した電線事業(住友電気工業)も誕生した。一方、住友家が営んだ両替商が、金融業(住友銀行)となり、倉庫業(住友倉庫)が派生した。また、住友が所有する不動産部を管理する業務(住友不動産)や銅山の土木建築部が分離独立した建築業(住友建設)など、別子銅山を種子としていろいろな花を咲かせた。こうした住友の事業展開が新居浜を住友城下町に仕立てていったのであった。

住友家と銅の精錬所

 住友が銅の精錬を家業としたのは、天正18年(1590年)住友家の家祖・政友の姉婿・蘇我理右衛門が京都で銅精錬と銅細工を営んだことに始まる。屋号を泉谷と称し、称号に菱井桁(ひしいげた)を用いた。これが住友の社章の『いげた』マークに由来している。その後10年ほどして慶長の頃(1600年頃)になって、理右衛門は鉛を使って銅の中に含まれている銀を抜き取る技術を習得した。これを南蛮吹き、南蛮絞りといい、わが国の鉱業史上、画期的な技術であった。理右衛門はこれを基盤に銅吹きから銅貿易、さらに銅鉱山へと事業を展開していった。また、南蛮吹きの技術を銅吹き仲間に伝授し、銅産業界の中心人物となった。
 理右衛門の長男・理兵衛が政友の娘婿となって友以(とももち)と名乗り、実家である蘇我家の銅吹き業を継承、屋号も泉屋を用いた。
 以来、住友家は銅業家として広く世に知られるようになった。
 友以は元和9年(1623年)あるいは翌寛永元年に大阪に出店を設け、寛永7年(1630年)に大阪を本拠とした。これから長い年月、大阪と住友の関係が深まっていった。住友家の事業は大きく分けると銅吹き業、銅貿易、銅山業の3つであり、それぞれの事業を拡張していった。寛永の頃、日本の1年間の輸出銅は300余万斤(1,800トン)とされているが、住友の扱い高は日本全体の3分の1以上を占めた。当時の輸出総額の70%を銅が占めていたというから、住友家の貿易における高い地位をうかがい知ることができる。
back

青野海運グループ史

next

目次

 

次へ