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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

育っていく後継者たち

 昭和49年に入ると、わが国の不況は一段と深まった。経済実質成長率は戦後初のマイナス(0.5%)を記録した。鉱工業生産指数が48年末から50年初めにかけて約15ヵ月間にほぼ19%の落ち込みを見せ、50年2月には完全失業者が100万人を突破したほど深刻な事態に陥った。政府は数次にわたる不況対策を実施し、公定歩合も4回引き下げて景気回復を図り、50年1~3月期を底にやっと回復基調に向かうことになる。しかし、個人消費の冷え込み、エネルギー多消費の素材型産業は停滞したままであった。過去20数年間、成長の一途をたどってきたわが国の化学工業も、50年にはマイナス成長に転じ、51年、52年と苦境を強いられた。

名古屋向けアクリル酸輸送

 内航業界では49年をピークに輸送量が減少し、貨物船油タンカーともに輸送量が減少し四苦八苦の状態に陥っていた。
 「第1次オイルショック後は新プラントの投資が減少し、大きな仕事はほとんど開拓できませんでした」(日野邦雄)
 しかし、青野海運株式会社はまだ新しい仕事がポツポツあり、恵まれている方だった。住友化学工業株式会社・新居浜製造所の要請を受け、名古屋の東亜合成化学工業株式会社向けにアクリル酸の輸送を開始したのもこの年から。東亜合成化学工業株式会社がプロピレンを原料とする製法へ転換するのを機会に、同社に住友化学工業株式会社がアクリル酸を供給してエステル化することになったもので48年12月に生産を開始していた。その海上輸送を青野海運株式会社が担当したわけである。
 さらにこの年には製鉄化学工業株式会社の要請によって『第8金福丸』を用船し、徳島の大塚化学薬品株式会社から製鉄化学工業株式会社向けのDHS液の輸送も始めた。
 昭和50年4月からアルキルベンゼン専属船として『第36栄宝丸』を起用した。当時社会問題となっていた河川での泡立ちや、手の荒れなどを防ぐ新しいタイプの合成洗剤が要望され、その原料(LAS=リニアアルキルベンゼンスルホン酸ソーダ)の需要が急増したためだ。
 また、日本燐酸株式会社千葉工場から住友化学工業株式会社新居浜製造所向けの燐酸輸送に大豊運輸株式会社の『和丸』を用船した。
 同年7月には資本金を8,000万円から1億円に増資して経営基盤の充実を図った。

父親の背中を見て育つ

 重馬の後継者として帝王学を学ぶ正や、日美も社業に勉励していた。「オヤジは取り立てて言葉で教え込むようなことはなかった。背中を見て育っていった感じ。私も4代目を継がねばならないという自覚を持っていました。企画部長社長付など営業の勉強をしました」(青野正社長・創業100周年1994年当時)
 一方、日美は本社経理を2年経験したのち、大阪の営業所に配属された。将来、日美を営業面での中軸に育て上げたい、と重馬は考えていた。
 青野海運株式会社は歴代、攻めと守り、営業と管理の二本柱を身内で固めて来た。積極的な性格の日美は攻めるタイプで営業に向いていた。
 日美の大阪の配属は50年11月。住友化学工業株式会社はそれまで運賃交渉を現場(新居浜)で行ってきたが、第1次オイルショック後の物流見直しによって、交渉窓口を新居浜から大阪本社の物流管理部に移行していった。日美にとってそうした時期に大阪営業所に在籍していたのは勉強になった。
 「荷主さんの本社を担当し、輸送条件、運賃交渉などいろいろ経験しました。その頃お世話になった方も偉くなられています。これも大きな財産となっています。最初は仕事も半端、船名も積み荷も分からず吉本所長によく叱られました。そのうちに環境にも慣れ、配船から綱取り、代理店との交渉と仕事も広がって、他船社との船の貸し借りもスムーズにやれるようになった。この頃の現場仕事が今、大きなプラスとなっています」(日美副社長・創業100周年1994年当時)
 当時を知る吉本輝雄(元大阪営業所長)は、「日美さんはしっかりしており、人の機微の分かる、繊細な人柄で皆んなに好かれたものだ」と語っている。
 片や、企業経営、商工会議所、地元の各種団体の役員を務めていた重馬は、60歳代半ばから業界活動にも力を入れた。 48年6月に新居浜地区海運組合理事、四国地方海運組合連合会理事、7月には愛媛地区海運組合理事、49年4月に海上保安協会新居浜地区幹事、5月から全国内航タンカー海運組合監事に就任した。
 多忙の上に多忙が重なったが、「奉仕」と「公」の精神が人一倍強い重馬にとっては喜びだった。折りあらば寄付もした。50年10月、愛媛県共同社会資金を寄付(49年12月)したことにより、三木武夫首相から褒状を授与された。

青野海運社歌を制定

 なお、青野海運は50年10月28日、「青野海運株式会社社歌」 を制定した。作詞・青野海運、作曲・上田美登。当時、内航業界で社歌を持っている会社はまだ少なかった。

一、 天佑うけて金光の
  光り輝くあさぼらけ
  歴史は古く一世紀
  我が営(いとなみ)は伸びゆきて
  誇りぞ高き青野海運
   
二、 神恩報謝を社是として
  実意・丁寧・十則を
  胸にきざみて今日もまた
  凛々(りり)しく業(わざ)にいそしまん
  希望は高し青野海運
   
三、 今こそ示せ底力
  丸に十の字の旗のもと
  守る安全わがつとめ
  四方の海を乗り越えて
  進まん共に青野海運

 社歌は46年に制定した社是十則の精神を汲み、青野海運株式会社の社風、ポリシーを表した。社歌の制定により、社員の団結心が一層強固になったのは言うまでもない。
 
 

 

 
青野海運社歌
青野海運株式会社社歌

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