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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第四章 復興期(戦後)住友企業の発展とともに

発煙混酸用に第21光輝丸建造

 機帆船のエンジンが焼き玉からディーゼルエンジンに変わってきたのは25年~27年頃。化学会社や丸善石油、東亜燃料などの石油会社は火気厳禁などのところが多く、事故を発生しやすい焼き玉機帆船が入港したときは、細心の注意を払った。

日本油脂株式会社武豊工場向け輸送

 住友化学工業株式会社は25、26年頃から工業薬品、染料化成品の売り上げを伸ばしていた。これに対応して青野海運社も積み荷や航域を拡大していった。昭和28年8月には日本油脂株式会社武豊工場(愛知県知多郡武豊町)向け発煙混酸の輸送のため、『第21光輝丸』(170G/T、140馬力)を7月、新居浜造船で新造した。木船としては最高水準の船で船価は1,000万円と高額であった。市太郎の船腹拡充の願いがこめられていた。
 本船の処女航海は新居浜~武豊であった。このとき市太郎は荷主への挨拶のため、同乗していたが、天気がよく波もなかった。市太郎は周囲の人々から「照る照るおじいさん」といわれるほど不思議と晴天に恵まれていた。近所の人も市太郎と同行する場合、持ってきた傘を家に置きに戻ったとか。『第21光輝丸』の船長は「こんな天気はきわめて稀、市太郎社長には日頃の苦労を見てほしかった」とこぼした。武豊港には100トン積み程度の船しか入港していなかったが、『第21光輝丸』は200トン積みのため、スムーズに入港できるかどうか下調べも怠らなかった。
 
 

 

 
第21光輝丸(昭和28年7月)
第21光輝丸(昭和28年7月

ホルマリン、メタノールのタンク船輸送

 昭和29年8月からホルマリン、メタノールのタンク船輸送を開始した。ホルマリン用には角形アルミタンク、メタノール用には鉄タンクをそれぞれ製作して船舶に搭載した。住友化学工業株式会社の荷役装置に合わせたタンクを作るため他社とはタンクの形状が異なる場合が多かった。
 昭和20年代の終わりになると住友化学工業株式会社は製品販売にピッチがかかった。大阪の桜島に関西一の中継所を建設した。そこには貨車の引き込み線も敷設した。大量生産・大量消費の幕開けを前に青野海運社の海上輸送力にも大きな期待がかかった。
ファンネルマーク

青野海運のファンネルマーク
ロゴ」は創業者、青野重松の「重」から音を取ったもの。
ロゴ」は転んでも起き上がり易いことから縁起をかついだ。
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青野海運グループ史

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