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昭和51年4月30日、事実上の創業者ともいえる市太郎が死去した。満88歳の大往生であった。前年に米寿を迎えて「赤い頭巾でお祝いしました。出席した孫や社員さんにもお小遣いを手渡すなど元気でした」(青野田鶴子)。1ヵ月ほどの入院生活を送ったのち、天寿を全うしたのだった。新居浜と住友と青野に捧げた一生であり、葬儀には市県関係者をはじめ荷主、海運業界、多数の人々が参列した。死後、勲四等瑞宝章を授与された。
故・市太郎の遺志を受け継ぎ、重馬は10月、新居浜市に3000万円を寄付、新居浜市はこれを受けて12月の市議会本会議で「青野記念奨学金条例」を制定した。地域発展のための人材育成を目的としたもので、個人による奨学基金は新居浜市では初めてであった。同基金では新居浜市教育委員会学校教育課が窓口となり、4年制大学生を対象に、52年度から同市出身者4~5人に月額2万円の奨学金を贈ることになった。 |
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米寿のお祝いを受ける市太郎
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市太郎の葬儀
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役員人事(51年2月)では昭和33年から常務取締役をつとめた青野節夫が専務取締役に昇格した。重馬の末弟で主に営業並びに管理部門を担当し、青野海運株式会社の業績の向上に寄与した。40年当初の経営危機のときには、重馬の指示のもと経理部長として敏腕を振るい、営業を担当してもつねに第一線で活躍、新しい事業開発に努めた。時代を先取りする洞察力、先見性に優れ、関係荷主の信頼も極めて厚かった。周囲に「青野の節ちゃん」の愛称で親しまれた。
また、新居浜青年会議所チャーターメンバーとして創設に携わり、新居浜ロータリークラブ会長など地域社会の振興に寄与し、業界活動でもタンカー 組合理事(昭和52~57年)の重責を果たした。 |
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青野節夫
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また、同月、住友化学工業株式会社千葉製造所、日本燐酸株式会社千葉工場の製品出荷の輸送業務円滑を期するため、千葉県市原市椎津856-1に千葉出張所(社員住宅兼用)を新築した。初代所長は向居信弥。重馬が地方自治功労により愛媛県知事表彰を受けたのは千葉出張所開設と同じ日であった。
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千葉出張所 昭和51年2月10日竣工
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