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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第八章 飛躍期(昭和平成年代)21世紀へ向け意識改革

バトンタッチへの準備

 昭和58年3月、青野正が副社長に、青野日美が常務取締役に昇格した。重馬の次代へのバトンタッチの準備だった。正を社長見習いとし、役員陣を若返らせ社内を活性化していこうとの意図であった。重馬が市太郎から社長の座を引き継いだのは60歳のとき。それから15年経過していた。子供たちも企業人として育ってきたし、ぼちぼち潮時だった。重馬は正に「やるか」とだけぽつりと言った。副社長になってから正には自分なりの経営というものが具体的イメージとなり、勉強と模索を繰り返した。

不況にあえいだ内航海運

 「じいさんやオヤジが作って来た会社は堅実経営に徹し、一歩一歩前進してきた企業だけに飛躍的に伸びた時代はなかったようです。私が入社して数年後に第1次オイルショック。続いて第2次オイルショックでいい時期というのは私も経験していませんでした」(青野正)
 当時、内航業界はどん底にあった。内航タンカー業界では船腹過剰にあえぎ、56年12月の第1次共同解撤に続いて58年7月には第2次共同解撤を実施。貨物船の船腹過剰も強まる一方であり、不況対策を求める声が強かった。船腹調整対象外船腹である特殊タンク船の建造承認実績(運輸省調べ)を見ると、57年度が27隻、1万5,588G/T、58年度が16隻、1万2,250G/T、59年度が31隻、1万1,674G/Tと減少傾向を示した。
 不況の中でも代替建造や荷主の製品多様化に伴う船隊整備は怠らなかった。住友アルミニウム製錬株式会社の積荷保証により、3月に液体硫酸バンド専用船『第5住吉丸』(船主・脇坂海運、公団共有船)が前野造船で進水した。9月には『第13金光丸』を売船し、新たに『西喜丸』を購入、船名を『住幸丸』(船主・住幸汽船)と変更。木ノ江ターミナルから姫路向けメタノールの輸送を担当した。同月、硫酸専用船『第1金光丸』を興亜産業株式会社で建造した。 35年12月に竣工した鋼船第1船『第1金光丸』の生まれ変わりともいえる船で、住友金属鉱山株式会社の積荷保証船であった。なお、6月には大分出張所を移転(大分市北鶴崎1-5-22)、9月には南海化学工業株式会社の事業の縮小に伴い、難波島出張所(大阪市大正区三軒家)を廃止した。
 
 

 

 
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1金光丸の進水
命名する重馬社長  (昭和58年9月)
命名する重馬社長  (昭和58年9月)

親睦団体・青親会発足

 社員の親睦団体「青親会」が発足したのはこの年の1月1日であった。青野海運株式会社、丸重商事株式会社、丸重興産株式会社、丸重海運株式会社の事務職員で構成し、会員相互の親睦と意思の疎通を図り、会員の福利厚生と併せてよりよい社風を培い、会社の発展に寄与することを目的としていた。初代会長が眞鍋米一、副会長が永井純司、理事は日野邦雄、加藤嘉彦、佐伯文三、伊藤直美、加藤公司、会計が塩崎蔦枝、事務局長が川上荘六、会計監査が三好竹次郎、山地義夫というメンバー。この青親会は現在も活発に活動している。

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青野海運グループ史

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