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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

難産だった第62金光丸

 昭和48年の12月には住友金属鉱山株式会社の要請を受け、硫酸専用船『第62金光丸』が進水した。同船は青野海運の建造担当者をして「もっとも思い出に残る船」とうならせ、非常な難産の末に竣工した。
 そのエピソードとはこうである。『第62金光丸』の進水前、同船を建造中の造船所の社長から「倒産するので、いま船台に乗っている船をお宅の方で引き取ってもらいたい」との申し入れがあった。船台に船が乗ったままだと倒産時にその船も差し押さえられ、青野海運に迷惑がかかる、との造船側の善意によるものだった。造船所の倒産の原因は狂乱物価の時代に鋼材を高く買い過ぎたため。青野海運株式会社では順調に建造が進んでいると考えていただけに、まさに青天の霹靂であった。慌てて社員がその造船所に飛んでいくと、まだ艤装も終えていないし、エンジンも付いていなかった。船の建造費は進水時点まで割賦支払が済んでいたが、エンジンはその造船所とエンジンメーカーとの契約で、青野海運株式会社にはまだ所有権はなかった。悪いことにその造船所の土地・機械・クレーンなどほとんどがリースで、倒産すれば、差し押さえるものがなく、青野海運株式会社の船が差し押さえられるのは明白だった。
 そこで青野海運は造船所に駆けつけ、船を船台から下ろし、船員を乗り組ませて沖につないだ。間一髪だった。翌日その造船所は倒産した。
 
 

 

 
 第62金光丸の進水式  (昭和48年12月)
第62金光丸の進水式(昭和48年12月)
造船所の倒産でテンヤワンヤの進水式であった。
無事就航した第62金光丸
無事就航した第62金光丸

法律知識を駆使した重馬

 差し押さえは免れたものの難題は山積していた。別の造船所にあとの完工までの仕事を継続するよう話を持ち込んだものの、一から造った船ではなく、いわく付きだけに快い返事は得られず、配管、ペンキなど造船所の了解を得て下請と直接交渉をすることになった。つまり、造船所がやるべき仕事を肩代わりせざる得なかった。工務関係者は2~3週間も泊まり込みで、下請業者に一つ一つ現金を払って艤装を完成していった。エンジンも再度1,800万円を支出して取り付けた。重馬社長の指示によって公証人役場に出向き、経緯を納得させて船に抵当権を設定した。重馬は現場から毎日連絡を受け、その都度、適切な指示を下した。当時、奔走した関係者は次のような感想を述べている。
 「現場にいなかったので余計大変だったと思いますが、何千万円の金を思い切って下請やエンジンメーカーに支払い、緊急事態を回避されました。法律的な知識も深く、大局的な見地から判断された」(田中猛)
 「1億500万円の契約でした。だが、実際には3,000万円ほど余分にかかっています。ピンチのときこそ経営者の判断が大切です。思い切った決断で、これが経営者だと感じました」(眞鍋米一)
 そのほか、「見事な対応ぶりでした。債権をどう押えるか、公証人役場との交渉など商売ではない部分での対応ぶりはひときわでした。社員の報告にも『それは甘い』など一つ一つチェックをしていました。商売よりそういう面がむしろ好きだったようです。さすが法学部出身だと思いました。自宅にも法律書がすごくありました。」また、「この船は海に浮かぶまでは苦労させられましたが、20年近く働いてくれました。乗りやすい船だと船員さんにも評判がよかった」など関係者は語っている。
 苦あれば楽あり、難産が好運を呼んだ船であった。また、重馬の指令に従って社員が一糸乱れず行動し、大きな成果をおさめたのも企業に対する実意を示すものであり、荷主に対する安定輸送の責任感を表わすものであった。これをきっかけに、造船所に対して銀行の保証をとり、完工時に建造費用の大部分を支払うなどの安全策をとるようになった。

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青野海運グループ史

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