取引の広がりと41年後半からのいざなぎ景気(45年6月まで続く)の追い風もあって、青野海運株式会社は船隊を増強した。
昭和40年の青野海運株式会社の保有または運航船腹は別表の通りである。陸上勤務者は31名、乗組員は190名。4月には初のケミカルタンカー・第1船『第13金光丸』(200トン積み)を愛媛県越智郡大三島の西原造船所で竣工させた。高度経済成長下で石油化学の伸びが著しく、住友化学工業株式会社が青野海運株式会社にもケミカル船へのビジネスチャンスを与えたものであった。また、港湾運送事業を整備拡充し、特定船舶整備公団との共有により鋼製曳船 『第2源福丸』を4月に広島県の向島造機株式会社で竣工させた。特定船舶整備公団は後の船舶整備公団(41年12月)のことで、この頃は、戦標船処理対策などが主な仕事だった。
昭和41年1月には元塚造船所で建造した鋼製艀の『
![ロゴ](/images/history/logo11px.png)
35号』(公団共有船)が進水し、11月には液体アンモニア専用船『第53金光丸』(公団共有船、200トン積み)が波止浜造船株式会社で進水した。青野海運株式会社にとって鋼製タンク船では8隻目の社船となった。翌42年10月に鋼製艀『
![ロゴ](/images/history/logo11px.png)
41号』(公団共有船)が元塚造船所で進水。38年の『
![ロゴ](/images/history/logo11px.png)
31号』から5年間で5隻と急ピッチの船腹拡充となった。まだまだ艀の需要が伸びていた頃である。 12月には硫酸運搬船『なかえい丸』(船主・中居厚平、200トン積み)が岡山造船所で進水し、船隊に加わった。