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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

古希を迎えた青野重馬

 重馬は昭和53年に元気に古希を迎えた。若い時から病弱だったのが、かえって良かったのかもしれない。
 ここに重馬が記した「古希の祝」と題した一文がある。
 『いつも他人ごとのように思って来た古希の祝いが、私にも今日、現実にやって来た。
 7月1日が私の誕生日である。満70年の長い長い年月を振り返ってみると、この我が身が、今日このように、元気に生き延びてきたことが不思議である。
 生後3ヵ月で、両親からも見放され、死を待つのみとなった乳飲み子が、御神縁を得て、奇跡的に生き返り70年後の今日、多くの子供や孫達に囲まれて古希の祝いを受けている情景は、この世の天国、極楽の絵図ではなかろうか。誠に有難いことであり、我を生かし、我をお守り下されている天地の親神様に、心からお礼申し上げると共に、この再び与えられた、我が命を大切に、少しでも世の中の人の為に御用にお使い頂かねば相済ぬと、一日一日を大切に過ごしている。
 私達夫婦はお陰で至極健在で、日々を楽しく過ごしておりますが、私はこの頃、家の家老の今迄のご苦労や、功績、有難さがひしひしとわからされ、自分に取っては『今後も益々無くてはならない家の宝』である事に気付かされ、我が身と共に、家老を一番大切にせねばならぬと考え、出来る限り感謝の意を表したいと努力している今日この頃である』
 重馬は筆マメでこのほかに、手記・一般文書、社内行事挨拶・訓話、記念行事祝事・挨拶、商工会議所会頭挨拶、結婚式祝辞などの原稿を多く残した。

新居浜商工会議所会頭就任

 新居浜商工会議所会頭に就任したのもこの古希の年であった。市太郎とともに親子二代の会頭就任だった。
 会頭としてもっとも大きな功績は、商工会議所会館の建設と地域経済振興への努力であった。ちょうど不況の中だったが、先頭に立って会館の建設を進めた。完成後、59年には「私の仕事は終わった」と会頭の席をあっさり後進に譲った。重馬は地位や名誉に恬淡としていた。そうした人柄だからこそ公職にかつぎ出されたのかもしれない。このほかにも公団共有船主協会評議員(50年5月)、新居浜海事振興会会長(51年6月)、四国海事広報協会理事(同)、全国薬品タンク船海運組合副理事長(同)などの要職を兼務した。これらの公職、業界団体への貢献を認められ、重馬は53年4月、紺綬褒賞、11月には勲五等双光旭日章を晴れて受章した。
 
 

 

 
勲五等双光旭日章
勲五等双光旭日章

5年ぶり第75金光丸竣工

 昭和53年には、『第62金光丸』以来5年ぶりの新造船『第75金光丸』が7月に高知重工で竣工した。初荷は千葉向けの液体アンモニア800トンであった。同月『大和丸』(船主・谷川浅一)を改造、船体を引き延してタンク容量を増加させた。住友化学工業株式会社愛媛製造所から千葉製造所向けの希硝酸輸送に当たった。新規輸送では『第5春日丸』(船主・脇坂勇夫)で1月からパークロールエチレンの輸送を始めた。
 役員人事(1月)では正が常務取締役、光年、日美が取締役に就任して充実を図った
 なお、3月には愛媛県の金子川激甚災害対策特別緊急事業によって旧本社事務所、新田町の本宅が解体された。
 
 

 

 
第75金光丸  (昭和53年4月)
第75金光丸(昭和53年4月)

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