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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第六章 充実期(昭和40年代)社訓十則に企業姿勢

業績は順調に推移

安全・海洋汚染防止に留意

 田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表したのは昭和47年6月であった(翌7月に田中角栄内閣成立)。これを引き金にして金融緩和と列島改造ブームにより、日本経済は高度成長のピークへと向かっていった。しかし、内航業界は、4月から7月にかけての92日間に及ぶ海員ストによって大きく揺さぶられた。ストの直接のきっかけは「大幅な賃上げと諸手当改善を含む労働協約の改定要求」であった。この47年ストによる船主側の損害は40年ストを大幅に上回り、内外航合わせて506億8,000万円にも達したといわれる。内航の損害は14日の争議解除時点で停船487隻、213万トン、49億1,000万円(内航船主団体対策本部調べ)となった。青野海運株式会社は当時、どこの労務団体にも加入していず、組合とは個別交渉方式をとっていたので、ほとんど影響を受けず、47年度は売上高が初めて10億円台に乗るなど、業績は順調に推移した。
 この年9月には『第5中栄丸』(船主・中栄汽船有限会社)で液体アンモニア輸送を始めた。なお、6月に海洋汚染防止法が全面施行されたのに伴い、住友化学工業株式会社は出入り業者を対象に安全協議会を組織して、安全の徹底を図った。青野海運株式会社でも安全、海洋汚染防止には一層留意した。ケミカル船が台頭してきたとき、ケミカル船建造をすすめられた重馬は「海にたれ流しをする船は嫌だ(当時はまだ海上にタンククリーニング液などを排出していた)」と断った話も残っているほどであり、安全と環境問題には頑固なまでに厳しいのが青野海運株式会社の伝統となった。
 
 

 

 
 昭和47年4月の停船スト
昭和47年4月の停船スト

東京出張所開設と社報発行

 昭和47年10月に東京出張所を開設、12月には資本金を5,200万円(43年8月)から6,000万円に増資して体制の整備を図った。東京への進出は、日本の各企業が物流機能を次第に東京に集約化していったのに対応したもので、東京都中央区日本橋江戸橋町1丁目9番地の千代田会館で事務所開きをした(初代所長・山下一雄)。それまでは45年10月から出張所開設までの間、山下一雄の私宅を連絡所としていた。また、この年に「社報」を発刊した。第1号は1月1日付で、重馬の「新春に思う」、「46年度優良従業員・永年勤続者表彰」、「多角化する丸重商事の事業」、「俳句・短歌」、「随想」などを掲載した。毎年1月1日付を含めて春、秋の3回刊行し、平成5年9月号から社内報の題名を「大海」(たいかい NO48)に変えて今も継続している。 重馬の四男・青野光年がこの年、丸重商事株式会社に入社。青野海運株式会社が新造、修繕する船舶の工務関係や安全管理を主に担当した。重馬には船の建造、修繕の際に「細かい工数まで検討しなさい」など厳しい指導を受けた。兄の正についての子供の頃の思い出は小さな英雄であった。「ビー玉やベッタン(メンコ)で菊本まで遠征し、両ポケットにビー玉をいっぱいにして帰ってきていました。遊びの面でも人を引っ張っていくタイプでした」と語る。
 
 

 

 
東京出張所
東京出張所
(双葉会館内に昭和47年10月11日開設)
大海
大海
2013年度版「大海」大海(2013年 No.31)

2014年度版「大海」

大海(2014年 No.32)

 


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