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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第四章 復興期(戦後)住友企業の発展とともに

海運軸に再建期し青野海運社

南海化学工業との取引開始

昭和22年、青野組は3度目の社名変更を行い『青野海運社』に改めた。本来業務の海運を軸に再建を期したものだった。この年から和歌山の南海化学工業との取引が始まった。住友系列以外では初めての荷主だった。キッカケは日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)の紹介によるもので、南海化学の和歌山工場(和歌山市小雑賀)で生産された硫酸を大阪方面に輸送した。輸送量は月間2,000トンほどだった。しかし、輸送代金の分割支払いやストにより滞船など南海化学側の事情によるトラブルも発生した。それでも海上輸送を継続したのは市太郎の度量によるもので、当時の南海化学の出荷担当者は「市太郎さんにはお世話になった」としばしば語っていた。

大阪に次ぎ大分出張所開設

 大阪出張所開設に次いで大分出張所を開設したのは昭和23年だった。日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)の要請を受けたもので、大分市生石町に事務所を設け、高橋一平を初代所長として派遣した。日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)の大分工場では硫・硝酸を大分港からトラックで輸送していたが、需要増加に伴い工場まで海送して大量輸送することになり、大分港からドラフトの浅い特殊船を配船した。これを青野海運社が受け持ち、『第1光輝丸』(30トン積み、30馬力)を建造してその輸送に当たり、昭和29年8月から第1光輝丸に代わり、『光栄丸』(30トン積み、30馬力、船主赤瀬光義)、『松吉丸』(30トン積み、30馬力、船主重田美芳)を用船して、その輸送に当たった。
 一方、大阪方面への硫安や硫酸輸送も次第に増加し、それぞれ月間2,000~3,000トンほど海送されるようになった。輸送方法は曳船に200~300トン、500トン積みの艀を3隻ほどつないで運航した。航海数は月間2~3航海。その頃運航していた艀は9隻だった。硫安ではこんなエピソードもある。当時、船艙に荷こぼれした硫安が農家から引っ張りダコで、売りさばいては船員の副収人になっていた。青野海運社では薄硫酸の輸送も行い、艀で神崎川(大阪)を遡り、川沿いの荷主(日本化学工業株式会社など)から出荷された製品を新居浜に海送した。
 
 
 

 

 
 大分出張所(昭和23年)
大分出張所(昭和23年)

新居浜海運株式会社常務に市太郎就任

 新居浜を中心とした貨物船関係では、この年8月に「新居浜海運株式会社」を設立し、市太郎が常務取締役、重馬が監査役に就任した。新居浜海運の前身は戦時中に設立された愛媛機帆船運送で、昭和22年頃には欠損を出していたが、幸い、新居浜支店だけは営業成績が上々だったため、本店から独立して設立した。設立に当たっては森実元知、西村冨二夫、古谷為輔(森実組)、青野市太郎、青野重馬、加藤芳右衛門(青野海運社)、田渕建樹(田渕海運株式会社)、亀頭茂(株式会社丸亀組)、渡都完(シェル石油株式会社)、小松由松(金栄丸回漕店)、一色達義(新居浜支店)、本田武雄(組合)の12名で発足、組合を結成、市太郎が総代として昭和23年7月初めに設立準備にとりかかった。設立登記に名を連ねた発起人は青野市太郎、青野重馬、古谷為輔、西村冨二夫、田窪駒平(組合)、小松由松、真木実(新居浜支店)であった。
 資本金は200万円で青野海運社と、森実組と所属船の船主らでそれぞれ8,000株を保有。本社は新居浜市甲1426番地に置いた。役員は代表取締役社長に島村計治、常務取締役に青野市太郎、松本実、西村冨二夫、取締役に小川悟郎、一色達義、田窪駒平、亀頭茂、真木実、監査役に渡部完、青野重馬、小松由松が就任した。所属船舶は58隻、4,140G/Tで、日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)の製品類を主に輸送した。
 また、昭和23年8月には『新居浜海運事業組合』を設立し、市太郎は理事長に就任し、多方面にわたる活躍を行った。
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青野海運グループ史

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