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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

2代目、丸重海運株式会社を設立

四阪島の銅製連に終止符

 昭和51年は住友金属鉱山株式会社にとっても節目だった。この年の12月に四阪島製錬所が銅製錬に終止符を打った。別子事業所では東予製錬所の操業開始後、銅製錬を東予に集中して四阪島での操業を縮小していた。しかし、旧式の熔鉱炉では採算がとれず、明治38年1月以来72年間にわたる銅製錬に終止符を打ったのだった。別子銅山の閉山とともにまた一つの歴史が終わった。四阪島製錬所は銅製錬休止に先立ち、50年5月にはニッケル製錬を終結しており、以後は還元ニッケルの製造とその際に発生する亜硫酸ガスを利用して薄硫酸生産を引き続いて行い、さらに鉄鋼ダストを原料とした粗硫化亜鉛の製造などに活路を見出していった。現在でも同所勤務者は社船で新居浜から通勤している。
 その住友化学工業株式会社は機構改革で52年3月、新居浜地区の4製造所を統合し、愛媛製造所を発足させた。
 この年12月、青野海運株式会社は丸重海運株式会社を設立した。初代の丸重海運株式会社(31年8月設立)は41年に窮地に陥った青野本体に吸収合併されたが、今回は新造の液体アンモニア専用船”第75金光丸”の保有を目的として復活したものだった。初代社長には青野節夫が就任した。機構改革(6月)では東京出張所を営業所に昇格して、営業の積極展開を目指した。なお、重馬は7月には第27回の海の記念日に当たり四国海運局長より表彰を受けた。

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青野海運グループ史

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