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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

第1次オイルショック発生

育ての親・別子銅山の閉山

 昭和48年は青野海運株式会社には感慨深い年となった。同社の生みの親とも育ての親ともなった住友金属鉱山株式会社の別子銅山が、48年3月31日、筏津坑の終掘をもって閉山したのである。戦後、大がかりな探鉱も行われたが、新鉱床は発見されなかった。
  別子銅山の採掘は元禄4年以来、283年間続いた。坑道は地上より2,000㍍の深部にまで達し延長は約700㌔㍍。開坑以来の出鉱量は約3,000万トン。この銅鉱石が住友金属鉱山株式会社はじめ住友化学工業株式会社、住友金属工業株式会社など住友財閥と住友グループを生んだ種だった。同時にそれは、愛媛県東予地方の一寒村だった新居浜を近代的な工業都市に発展させた種でもあった。
  別子銅山の閉山は新居浜地区の人々はもちろん、別子銅山の御用達としてスタートした青野海運にとって、シンボルを失ったような寂しさを与えた。
  しかし、そんな感傷を吹き飛ばす大事件が起こった。全世界を揺るがせた第1次オイルショックが発生したのであった。 10月6日に勃発した第4次中東戦争をキッカケに10月17日、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は25%の減産を決定。 OPEC(石油輸出国機構)も原油公示価格を段階的に引き上げ、48年1月からの1年間で原油価格は4倍に暴騰した。さらに大手国際石油資本(メジャー)が日本向け供給の10%削減を通告してきた。
 
 

 

 
 石油ショックと「狂乱物価」
石油ショックと「狂乱物価」、スーパーの棚から
トイレットペーパーなどの品物が消えた。
(昭和48年秋)朝日新聞社提供

燐酸液輸送が業務に加わる

 原油のほとんどを輸入に頼っていた日本は、原油の大幅値上げと供給不安で上へ下への大騒ぎとなったのは周知のこと。
 石油事情の悪化は燃料不足となって内航海運業界を直撃した。その対策として青野海運株式会社は地元の石油会社との幅広い取引は止め、燃料の買い取り先を一社(ゼネラル石油)だけに集約して結びつきを深めた。それが奏功し、先行きに不透明感はあったものの、船舶の運航には支障なく、輸送量も順調に推移した。むしろ、燃料不足が運賃の値上げを誘引し、売上げが急上昇し、災いが福に転じた。 49年度の売上げは6億2,000万円への増加を記録した。輸送量も伸び、業域も着実に広がった。 48年1月から燐酸液が業務の一つに加わった。日本燐酸株式会社工場の本格稼働に伴うものだった。同社は、昭和電工株式会社、日本化学工業株式会社、呉羽化学工業株式会社、住友化学工業株式会社の4社が業務提携して設立したもので燐酸・燐安工場は住友千葉化学工業株式会社袖ヶ浦第2地区の隣接地にあった。その関係で青野海運株式会社は、オープン当初(44年)から輸送を手がけていた。航路は日本燐酸株式会社千葉工場から住友化学工業株式会社愛媛製造所向けが主力であった。

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青野海運グループ史

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