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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

当初は資材納入が主力

 青野重松が金子村惣会で、別子銅山の御用達商人として青野回漕店を創業したのは、この頃であった。明治27年5月。当時、27歳。折しも日清戦争勃発の直前であった。
 創業当時は回漕店とは名ばかりで、別子銅山に必要資材を提供する『納入業』が主力だった。新居浜を中心とした諸地方から木炭や薪、塩、石炭などを買い集め、別子銅山で働く人々の生活物資や鉱山の採掘に必要な資材を納入した。ひとことで物資といってもその数量はおびただしいものであった。別子銅山で働く人々は年々増加しており、本籍居留合計で、明治29年には7,852人ともなっていた。これらの人々が生活するに必要な食料、日用品が新居浜市に集積され、別子銅山の現場まで運び上げ、納入するのに多くの住友御用達商人が活躍した。青野重松はそのうちの一人だったわけだが、住友御用達の御墨付を頂くのが当時としては並大抵ではなかった。これには重松の血筋と家柄が奏功した。
 
 

 

 
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創業者・青野重松

豪農の三男坊だった重松

 重松の旧姓は塩崎であり、生家は『中西屋』と称する豪農だった。三男坊だったために後に娶(めと)った妻のキチとともに青野幸四郎の婿嗣子となり、青野姓を名乗るようになった。キチの生家も『住吉屋』という屋号で呼ばれ、地元では名門の家柄であり農民でありながら帯刀を許されていた。
 一方、縁組み先の青野幸四郎も立派な旦那であった。あいにく、不幸が続き、年老いて独り者になって苦労をしていたため養子縁組を求め、これを重松夫婦が受け、青野家に入った。重松とキチは幸四郎に大切に仕え、家を興すために一生懸命働いた。幸四郎は重松・キチの献身に大変喜び今際の際に「私が死んだらあの世から後々まで守ってやる」と言って2人を拝んで亡くなった。
 重松の創業当初は苦労が多かった。初めは4~5トンの小船2隻を買って重松自身も船に乗り組んでいた。暮らし向きも楽ではなかった。そんな重松を働き者のキチが支えた。キチは気丈で朗らかな性格。「若い頃から声が良かったので田植えのとき私が歌うと、皆んな手を止めて聞き惚れていた」など自慢をしては周囲を笑わせる明るいムードメーカーでもあった。「私の方が惚れ込んで結婚した」とキチは孫たちによく語っていた。

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青野海運グループ史

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