menu mokuji 年表
menu data

文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


トップページへ

history title

第二章 始動期(大正)タンク船の開発に心血注ぐ

3代目・青野重馬が入社

 昭和9年2月、住友肥料製造所は住友化学工業株式会社と社名を改めた。この年、青野海運の三代目社長となる重馬が入社した。
 重馬は市太郎の長男で明治41年7月1日生まれ。九州大学法学部を卒業して家業を継ぐために新居浜に帰ってきた。初代の重松、キチ夫妻は教育熱心で、市太郎も明治36年に当時ではまだ数少なかった尋常高等小学校(金子村立)を卒業していたし、次男の喜助は九州大学文学部で東洋史を学び、広島文理大学でも研究を続けるなど一族には学究肌の人も多かった。法学部を卒業した重馬は検事になる希望を持っていたが、長男だけに家業を守る立場にあり、当時としてはそう簡単には自分の意思を貫けなかった。父の市太郎が営業の第一線で飛び回って、本拠を留守にすることが多かったため、経理や総務全般を見る必要があり、体が弱ってきていた重松が孫の重馬に金庫の鍵を預けた。重馬は重松の名前を一字もらうだけあって性格は堅実派・慎重派と似通っていた。重馬は学生時代に、使った費用の明細を毎月、重松に送っていたほど几帳面。このような性格なら金庫を預けても大丈夫との判断が重松にはあった。
 
 

 

 
 入社当時の青野重馬
入社当時の青野重馬

対照的な行動派と慎重派

これに対し、市太郎は率先垂範型の行動派。重馬の入社で後顧の憂いがなくなったこともあって、一段と積極的に営業を展開し、社業を広げていった。
 住友別子銅山 明治15年頃  住友別子銅山 明治15年頃
(住友別子鉱山史より)
新居浜製錬所 明治の頃
新居浜製錬所 明治の頃
(住友別子鉱山史より)

住友化学工業新居浜工場 昭和13年頃

住友化学工業新居浜工場 昭和13年頃
(住友化学工業史より)


back

青野海運グループ史

next

前へ

 

次へ