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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第五章 成長期(昭和30年代)経済成長の波に乗って

第8、第11金光丸と鋼製艀建造

 昭和37年5月、木船のみを対象として制定された木船運送法(昭和二十七年法律第百五十一号)が小型鋼船を含めた小型船海運業法に改正された。主な改定点は①対象を従来の木船のほかに500G/T未満の小型鋼船を加え、これを規制し、小型船による海上輸送の円滑化を図る②登録の資格要件の強化③営業保証金の証券供託を認める─などで、とくに登録強化は能力や資力なども資格要件として、実質的には許可制と同様の効果をもたらすものであった。20G/T以上が登録船、20G/T未満の小型船は届出船となった。木船時代は木船業者も運送業と同じような商行為を行っていたが、小型船海運業法によって運送業者(オペレータ)と貸渡業が区分され、オペレータを中心にグループ化していった。
 青野海運株式会社でも住友系企業の元請オペレータとしての性格がさらに濃くなった。

 
 

 

 
社内運動会(昭和37年)

社内運動会
社内運動会(昭和37年)

壬生川に出張所を開設

 青野海運株式会社はタンク船の輸送力強化と併行して貨物船分野での勢力の進展を図った。『第5金光丸』の建造もその意欲の表れの一つであり、第2弾として7月に壬生川出張所(愛媛県周桑郡壬生川町大字壬生川、初代所長は永易吉示兼務)を開設した。愛媛県は東予新産業都市の建設を推進し、新居浜、西条、壬生川に至る臨海部の開発を計画していた。この計画を先取りし、東予圏と阪神圏を結ぶ一般貨物輸送の足掛かりとする考えであった。

液体肥料をタンク船輸送

 10月からは住友化学工業株式会社の要請により、『第13光輝丸』を使用して液体肥料のタンク船輸送を開始した。肥料は従来の硫安、過燐酸石灰のような単体肥料よりも尿素や高度化成肥料に重点が移り、さらに液体肥料の要望も高まった。住友化学工業株式会社はわが国初の肥料3要素を備えた液体化成肥料の製造に成功。35年8月に月産50トンの設備を設け、積極的に販売活動に乗り出し、この年の10月には月産600トンに増産した。青野海運株式会社はこの販路の広がりに沿ってタンク船による大量輸送を行ったもので、ローリーにつないでエンドユーザーに配送された。
 薬槽船業者による薬品タンク船協会が発展的に解消し、昭和38年4月に新しく全国薬品タンク船海運組合が発足した。薬品タンク船協会が東海以西のタンク船業者によって構成されていたのと同様に、「全国」の名称をつけていたものの、やはり西日本を中心とした組合であった。関東地区ではこれと前後して関東酸槽船海運組合が設立されていた。市太郎はタンク船協会の副会長に選出された。「タンク船協会の会議でも住友の業者という誇りを持っていた」と吉本輝雄(元監査役)は語っている。
 
 

 

 
第8金光丸(昭和36年7月)
第8金光丸(昭和36年7月)

CPPを装備した第11金光丸

 昭和37年こそ船舶の建造を一服したが、38年にはまたまたタンク船、鋼船艀の船隊充実を行った。住友化学工業株式会社の要請により7月には発煙硫酸専用タンク船『第8金光丸』(158G/T)を来島船渠株式会社で竣工。同じ月に鋼製艀の『ロゴ31号』、『ロゴ32号』を新居浜・株式会社西山興業所で建造した。翌年5月には同じ株式会社西山興業所で鋼製艀『ロゴ33号』を竣工、6月には硝酸専用タンク船『第11金光丸』(184G/T)を来島船渠株式会社で建造した。本船は遠隔操作ができる近代化船の第1船で可変ピッチプロペラを装備していた。タンク船の船腹増強はもちろんながら、艀の鋼船化は木製艀の老朽化によるリプレースで、まだ、外航船が直接接岸できるバースが少なく、艀需要の伸びに対応したものだった。
 
 

 

 
第11金光丸(昭和39年6月) 可変ピッチプロペラを装備した近代化船
第11金光丸(昭和39年6月)
可変ピッチプロペラを装備した近代化船
艀だまり
艀(はしけ)だまり
昭和38年頃の惣開港
対岸は住友化学工業

壬生川~大阪の貨物定航開設

 貨物船では5月にかねてから計画中の壬生川~大阪間の貨物定期航路を開設した。鋼製貨物船『第5春日丸』(船主・堀内勇夫)を配船し、壬生川からは肥料や卵、柿や青果物、大阪からの帰り荷では鋼材を輸送した。壬生川での取扱店は壬生川機帆船運送、大阪側の取扱店は株式会社北村回漕店と東西海運株式会社であった。5月13日、壬生川港で地元や関係者を招いてレセプションを行い、意欲的な貨物定期航路開設となったが、港の設備が今一つであり、地元農協などの出荷もままならず1~2年で撤退せざるを得なかった。東予地区が工場群の進出によって生産活動を拡張していくのはまだ数年先のことであり、時期尚早だった。『第5春日丸』はのちにタンク船に転向した。
 
 

 

 
 住友鉱山の船工場付近
住友鉱山の船工場付近

内航二法の公布・施行

 昭和38年3月、外航海運二法の国会審議の中で「内航海運対策についてもすみやかに抜本的措置を考究する」との付帯決議が加えられた。これを受けて4月には運輸大臣の懇談の場として「内航海運問題懇談会」が生まれ、政府の目も次第に内航の正常化対策に向けられていくようになった。
 翌年には小型船海運業法と小型船海運組合法の改正による内航海運業法、内航海運組合法のいわゆる『内航二法』が生まれた(7月公布)。内航海運業法は①内航海運業を原則として許可制とし業界の秩序維持・輸送の円滑を図ること、②適正船腹量の策定及び内航船腹量の最高限度の設定により、内航船腹量の調整を行うこと、③標準運賃、標準料金、標準貸渡料の制度によって不当な取引を防ぐこと、④内航運送業者の許可基準を厳しくし、適正規模の確保により業界の再編成を図る─というのが基本的な考え方であり、内航海運組合法は、内航海運業者が内航海運組合という組織を通して自主的な調整行為、共同行為などを行うことを認めたもので、内航海運の正常化への期待がこめられていた。内航二法の公布、施行によって内航海運業界の組織化も進み、10月に全国内航輸送海運組合、内航大型船輸送海運組合、11月には全日本内航船主海運組合、12月には全国内航タンカー海運組合が発足した。市太郎は監事に選出された。既設の全国海運組合連合会とともに内航5組合が出そろい、内航海運業界は船腹調整という新たな時代を迎えることになった。
 タンク船の場合、内航二法制定当時は極端な不況ではなかった。しかし、内航二法によってローカルの取扱業者などが次第に姿を消していき、オペレータの支配系統が出来上がっていった。青野海運株式会社も新しい時代を迎えることになった。
 
 

 

 
鋼製の艀⊕33号 (昭和39年4月)
鋼製の艀 ロゴ33号(昭和39年4月)
⊕35号(昭和41年2月)
ロゴ35号(昭和41年2月)
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