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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

森実組と共同鉱石部設立

 この年、青野同漕店は森実組と協力して共同鉱石部を設立し、阪神方面への鉱石輸送、下りは四阪島向けへの硫酸滓の輸送を開始した。阪神方面の扱い店を神戸の丸亀回漕店に依頼し、当時の主な取引先はラサ島燐鉱、大日本肥料大和田工場・木津川工場・小串工場、旭ベンベルグ絹糸、斎藤硫曹、藤田鉱業、宇部窒素、東洋レーヨン、西之川鉱石、大阪晒粉であった。
 別子銅山の鉱石は高品質で硫黄分の含有量が高かった。別子銅山では大正4年に第四通洞・大立抗を開削して大量出鉱体制を整え、運搬系統の変更、採鉱法の向上によって出鉱量は年間30万トン台に達し、大正11年以降は40万トン台を記録するようになった。これらの輸送量の伸びは四阪島での製錬分とは別に、硫化鉱から硫黄を抜くため、大阪・直島で鉱石を焼き、それを四阪島へ持ち帰る輸送が派生してきたためだった。この新居浜 から四阪島製錬所への鉱石輸送は住友鉱山が自社船で運航していたが、阪神方面へは森実組と青野回漕店の起用となった。新居浜では森実組と青野回漕店はいわば地元海運の双璧。住友では地元2大船社の競争を避けるために、両社に共同運航を指令した。下錆けを大事に育てる住友の社風を象徴する配慮だった。
 これを受け、両社の番頭が交替で事務所に詰め、住友側の指示を受けては傘下の船を配船した。ほとんど交替で船を出し、和気あいあいの雰囲気であった。会社側の支払い伝票にも同社の名前が書かれ、徹底した配慮ぶりであった。当時の青野回漕店の受託船舶は113隻、1万3.500トンで受託船の多さでは日本でもトップクラスであった。この共同鉱石部は鉱石の品質低下で自然消滅したが。荷物は次第に硫酸に移っていった。

金光教への信仰深めた市太郎

 誠実でハッタリがないといわれる青野海運の社風は、重松・市太郎の信心深さとも関わっている。とくに市太郎は大正10年頃に金光教に入信し、熱心な信者となった。重松は特定の宗教に帰依はしなかったが、朝夕の礼拝は欠かさず神仏を敬まった。市太郎が金光教に入信したのは青野家へ金光教の教会長が毎日遊びにきていたのがキッカケとなった。   「大正10年の1月中旬のことであったと記憶していますが、教会の上棟式を見に行っている夢をみました。その夢の中での出来事ですが、私が境内に立って上棟式を見ておりますと、餅まきが始まりました。四方固めの東の角の大きな鏡餅か私の前に飛んできましたので、それを受け止めて懐へ入れました。すると、側にいた2、3人の人が、どっと私にのしかかってきました。ところが不思議なことに、その餅から金色の光が輝き金の鳥になったのです。それから間もなく、ある夜また夢を見た。私は手を合わせたこともないに、別子銅山の方に向かって手を合わせていると、山から太陽が昇り、その太陽が私の口に入り、腹を通り、右足の膝の関節に止まったという夢を見たのです」(おかげ談議)
 日吉丸の母が太陽を吸い込んだ夢を見て懐妊したという昔話もあるように太陽を飲む夢はスケールが大きく神がかりになるのも無理はなかった。この夢を境に市太郎は金光教を信奉し、経営にも感謝と貢献の精神を反映させていった。

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青野海運グループ史

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