第四章 復興期(戦後)住友企業の発展とともに
しかし、荷主の住友鉱業株式会社と住友化学工業株式会社の復興は思うに任せなかった。GHQの指令による財閥解体があったからである。住友鉱業株式会社は昭和21年1月、社名を井華鉱業株式会社に変更するとともに、イゲタマークの使用を中止した。住友化学工業株式会社も同年2月、新社名を日新化学工業株式会社として再発足した。
日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)では新居浜製造所で、終戦後、手持ち原料で細々と生産を再開したが、昭和20年9月17日の枕崎台風によって停電し、以後操業はストップしていた。その後、鋭意生産再開に努め、同年10月から手持ち硫酸を使用して硫安の製造を開始した。過燐酸石灰工場、接触硫酸・硝酸両工場も稼動し始めた。これが戦後のわが国で硫安製造の最初となった。復旧工事もようやく進み、昭和21年10月には月産で硫安10,000トンを記録するまでになった。
青野組では井華鉱業株式会社と日新化学株式会社からの硫酸、硫安の出荷が次第に増加してきたのに対応し、業務面での支障を来さないため昭和21年、大阪出張所を再開した。昭和14年に開設した此花区春日出町の出張所は空襲により焼失していたので、日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)北安治川中継所の敷地の一部を借用して開設した。
昭和23年3月に入社し、のち二代目の大阪出張所長になった吉本輝雄(元監査役)は当時の模様をこう語る。
「平屋建ての事務所兼社宅でした。事務所は20坪ほどの広さ。重田所長ほか2~3人の事務員がいた。建設するとき資材その他を調達するのに住友化学工業株式会社のお世話になった」
大阪出張所の主な仕事は大阪の日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)運輸課との交渉、オーダーによる配船、立ち合いなど。当時出港や荷揚げ完了の連絡など新居浜への連絡はすべて電報で行っていた。電話はあったが午前中に市外通話を申し込んでも夜にやっと通じるといった時代で、ほとんど役に立たなかった。