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昭和40年、青野海運は株式会社に改組して10年目に当たり、 気分一新と内航業界の変動に対応するため、7月に役員改選を 行った。役員は次の通りであった。
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3代目社長に就任した青野重馬 |
また、この年の11月3日、市太郎は永年港湾事業に尽くした功績により、晴れて勲五等双光旭日章を授与された。
その3年後の昭和43年3月、青野海運株式会社は役員人事を行い、新体制を敷いた。これまで先導役をつとめてきた市太郎が会長に、副社長の重馬が社長に就任し、青野海運株式会社は三代目の時代に入った。すでにこのとき市太郎は80歳の高齢であり、重馬も還暦を迎えていた。 「市太郎さんはお元気な方で責任感が強かった。そのため、社長の座を息子になかなか譲らなかったのでは」(土方武住友化学工業株式会社元相談役・日本たばこ産業会長)との証言もあるが、いかに元気でも80歳で社長を張るのは難しい。経営も安定路線に入ったことでもあり、ここが潮時との判断で重馬にバトンタッチした。 二代目の市太郎と三代目の重馬の性格は対象的だった。市太郎は外交的で新規開拓意欲が旺盛。一方、重馬は慎重派で理論家。よく読書をする学究肌でもあった。 「運賃交渉では、コスト計算し、組み立てが適正かどうか、社会的に納得してもらえるかどうかまで考慮した。その準備をするのが大変で、あらゆる角度から考えるという面では随分鍛えられました。文章も重馬会長に次第に似るようになりました」(日野邦雄) 「行動する場合は必ず2人でするよう指示されました。1人じゃ情報収集が片寄る恐れがあったからで、同じ話でも2人の意見を聞いてから決断されていました」 |
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市議会議長に重馬が就任 |
昭和44年には後に4代目社長となる青野正が青野海運株式会社に入社した。正は三男(長男は幼時に死去)だったが、幼い頃からリーダーシップがあり、積極的な性格で青野海運株式会社を継がせるには適材だと市太郎も重馬も判断していた。関係先にも早くから「正に会社を継がすからよろしく頼む」と根回しをしていた。そうとは知らず、正には会社を継ぐ気持ちはサラサラなく、大学を卒業するとき就職を決めていたが、重馬から「帰ってこい」の矢の催促に折れて青野海運株式会社への入社を決意した。子供の頃から事務所に出入りし、社員によく遊んでもらった。隔世遺伝で、性格は祖父の市太郎によく似ていた。重松・市太郎・重馬・正と青野海運株式会社の社長は慎重派と積極派が交互に就任した。
正が入社して仕事にタッチすると、市太郎は話が分かる人、重馬は恐ろしい存在という感じであった。配属されたのは住友化学工業株式会社の充填場の西浜詰所。1ヵ月もしたら仕事を覚え、早く他の仕事をやりたいと訴えたが通らず、3年間西浜詰所に通った。 「いまから考えると現場にいた3年間が大変役に立っています。船員と同じ釜の飯を食い、酒は冷酒で肴はイリコ。船長や船員はその頃、私をテストしていたのだと思います。」 仕事の内容は製品課にオーダーを取りに行き、積み込み、比重測り、封印、書類作成と船が出港するまで。いわば青野海運株式会社の原点ともいうべき仕事でみっちり鍛えられた。その後、営業に転じ日野邦雄のもとで指導された。 「日野さんは侍で厳しかった。仕事面でちゅうちょすると、『もうその仕事はやめとけ』といった具合でした。父からも厳しくしつけをしてくれと注文されていたのだと思います」 |
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入社当時の青野 正
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