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3回目のトライで成功 |
大正15年に新居浜で再び煙害問題が持ち上がった。今度は煙害防止対策の一環として設立したはずの住友肥料製造所(大正14年に改組し、株式会社住友肥料製造所)が工場周辺の農民からヤリ玉に上かった。硫酸とくに煮詰硫酸を製造するときに排ガスや硫霧が漏出していたためだった。1つの煙害が次の煙害につながり、また煙害防止が新たな産業を産出した。こうした連鎖反応が無機化学の特徴であり、無機化学の歴史は煙害をはじめとする公害対策の歴史と言ってもいい。
住友が新居浜の煙害にピリオドを打ったのは、昭和4年で四阪島製錬所にペテルゼン式硫酸設備が完成してからである。この装置は当時ドイツとロシアに小さな試験工場があるだけという新鋭設備で本格稼働に伴い、四阪島製錬所から排出される亜硫酸ガスは急速に濃度か低下し、6年には半減して0.53%となり、その後、毎年低下していった。 一方、住友肥料製造所は米国からNEC法というアンモニア合成法の技術を導入し、硫酸との組み合わせによって硫安(硫酸アンモニウム)を製造する計画が進んでいた。 折しも日本経済は不況の真っただ中にあった。昭和2年に大蔵大臣の失言から預金取り付け騒ぎが起こり、2年後の昭和4年10月には世界恐慌が始まった。 四阪島製錬所のペテルゼン式硫酸設備の稼働によって、硫酸は日産100トンと大量に生産されるようになったが、引取先の住友肥料製造所の硫安工場はまだ建設中であり、やむなく過燐酸石灰用に使用したが、これも市況が悪くさばき切れず、在庫は増えるばかりの状態となっていった。 一方、住友肥料製造所では硫酸の過剰処理のため、鉛室硫酸はすべて煮詰めて濃硫酸として販売することになり、人絹や染料、セルロイド、石油精製などの各工場へ必死の販売が展開された。その成果が除々に表われ、輸送量は次第に上向いていった。 |
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昭和初期の安治川(大阪市港湾局提供)
(朝日新聞社提供) |
青野回漕店は、肥料など一般貨物やビン詰め硫酸、鉛張りタンク船輪送などに携わるかたわら、市太郎が中心になって必死にタンクの完成に向けて知恵を絞っていた。1回目は角型タンクを設置して亀裂が生じ、2回目にはタンクを丸型に改良したが、再び失敗した経験があるだけに、もう後には引けないという気持ちと今度は失敗が許されないとの思いが重なり合っていた。そして考えついたのがボイラー型のタンクであった。硫酸の安全輸送にはこれしかないと決断した。まさに発思の転換であった。陸上の硫酸タンクについて豊富な経験を持っている住友肥料製造所の技術陣にいろいろなアドバイスを仰ぎ、共同研究を重ねていった。陸上のタンクは固定されているので、外部からの影響は海に比べると少ない。船にタンクを据え付けた場合は、海象、気象の影響が強く、ピッチングもあればローリングもあり、タンクに与える衝撃は陸上と比べものにならないぐらい大きい。そのハンディキャップを克服するのが青野回漕店にとって最大の研究課題であり、問題解決に全力投球した。
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当時のタンク船
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光輝丸でタンク船輸送 |
危険視されたこのタンク船輸送に従事した船乗りたちの功績も忘れられない。成功するまでに2度も事故のために失敗しているだけに、冒険とも思われたが、船員達の重松や市太郎への深い信頼感がタンク船の成功を呼び込んだ。
硫酸輸送に鉄のタンクは不適当とされていたが、98%の濃硫酸なら十分であり、薄くなるに従って対応できないことも分かってきた。そこで薄硫酸の輪送の場合にはタンクに鉛を張った。硫酸タンク船が薄硫酸にも悩まされなくなったのは、鉄タンクの内側に鉛を水素焔で吹き付ける鉛ホモゲン方式が採用されるようになったからである。荷物の積み降ろしは、後に工場内に設置された荷役装置に頼るようになったが、最初は長い柄のついたひしゃくで汲み上げる原始的な荷役方法がとられていた。また、タンク船になって、船自体に荷役装置が取り付けられるようになり、エアホースが使われて荷役のスピードアップが図られた。しかし、天然ゴムの荷役ホースは耐久性に乏しく、荷役中にホースに穴があき、飛び散った硫酸で怪我をする人が出たりした。またホース径も1~2インチ程度でエアの圧力も弱く、改良の余地はいくらも残されていた。 住友肥料製造所がタンク船輸送で3度にわたって青野回漕店を指名したのは、大正6年に海上輸送元請けとなって以来、重松、市太郎の堅実な経営ぶりや住友に対する誠実さ、人柄を信頼していたためであった。 住友金属鉱山に勤務し、輸送課に在籍したことのある高檎延男元常務(重松の娘婿)は重松の印象を次のように語る。 「輸送課にいた頃、重松さんとは顔見知り程度でした。上司だった服部恕一輸送課長の話によると、重松さんに対する会社の信用は大きかった。口数は多くなかったが人情味のある性格に好感が持たれていたようです。」また、「会社から電話がかかってきますと、『はい、はい、承知いたしました』と祖父はそれはそれは丁寧な言葉で返事していたのを記憶しています。」(青野田鶴子=重松の孫嫁) 加えて、タンク船の成功は市太郎の思い切りの良さも大いに貢献した。住友肥料製造所の指導あってこそだったが、簡単にタンク船に転向できるものではない。タンク船を手掛けていたのは青野回漕店や辰巳商会などほんの一部の業者で、タンク船が出てきてからもビン入りの硫酸輸送が併行して行われていた。また、何分にも危険が付きまとう仕事だけにそっぽを向く業者も多かった。そこで荷主自らが硫酸タンク船を造り、これを運航するケースもみられた。住友別子鉱山株式会社が昭和5年、四阪島~新居浜で硫酸用鉄製の自社船『第1日進丸』(267G/T、川崎造船所)、『第2日進丸』(346G/T、播磨造船所)を運航した。『第1日進丸』は角型鉛張りの鉄タンク、『第2日進丸』は丸型鉄タンクを装備していた。もともと住友別子鉱山株式会社は、四阪島製錬所への海上輸送を直轄で行ってきた。新居浜から銅鉱石を積んだ艀10数隻をスチームエンジン装備の『四阪丸』が曳航し、運輸課の従業員が乗船するなど原料の安定供給のため、自社運航を行ってきた経験を持つ。これは一例だが、一部を除くと当時の輸送業者に力がなく、荷主自身が乗り出さざるを得なかった。 住友別子鉱山株式会社は昭和9年に硫酸船のタンクを陸揚げし、社船による運航をやめたが、このあたりから輸送業者の体制も整ってきたということで、青野回漕店でも硫酸タンク船運行ノウハウを十分に蓄積してきていた。さらに硫安の増産に対応して西日本各地への配送やその他製品、原材料の輸送と実績を挙げ、青野回漕店の名前を高めた。 |
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高橋 延男
青野 田鶴子
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関西、関東に荷主拡がる |
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