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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第八章 飛躍期(昭和平成年代)21世紀へ向け意識改革

積極的な船腹拡充

 正社長の積極策は61年から始まった。まずリプレースからで35年から41年にかけて大量に建造した船を次々と代替建造していった。不況下でも思い切った投資が出来たのは、先代の重馬の堅実経営のおかげだった。青野海運株式会社は創業から正が社長を継ぐまでの90年間、赤字を一度も出したことがなかった。本業で稼ぐことを頑なに守り、投機で引当権利を買うようなことも一度もしなかった。こうしたクソまじめさが、青野海運株式会社の体力を温存し、正社長の時代になって華が咲き出した。新建造は61年2月に高松の興亜産業株式会社で『神栄丸』を竣工したのをはじめ、次々と新造、買船した。船隊拡充は次の通りであった。

昭和61年2月  硫酸船『神栄丸』(196G/T、400㎥)竣工
61年3月  『光洋丸』(解撤用)買船
61年3月  ケミカル船『恵祥丸』(『第3神栄丸”』船名変更、1,229㎥)買船
62年3月  ケミカル船『福寿丸』(『第7神栄丸』に船名変更、1,412㎥)買船
62年3月  重油船『第20金盛丸』(619㎥)買船
62年5月  硫酸船『第8神栄丸』(491G/T、1,000D/W)向島造船で進水。 『第58金光丸』のリプレース
62年11月  硝酸船『第1光輝丸』(198G/T、453D/W)高松の興亜産業株式会社で進水。 『第3金光丸』のリプレース
63年2月  新造社船では初のケミカル船『第3光輝丸』 (377G/T、714㎥)村上秀造船株式会社で進水。
平成元年1月  ケミカル船『第62栄宝丸』(『第11神栄丸』に船名変更652㎥)買船
3年3月  油送船『第51昭宝丸』(旧『第28光輝丸』、1.243㎥)買船
3年4月  ケミカル船『第3山菱丸』(408㎥)買船
3年10月  ケミカル船『第7飛航丸』(『第8神徳丸』に船名変更、649㎥)買船

 ──というように6年間の間に新造船(リプレース)を含めて12隻を新造及び買船した。この積極策は見事に的中した。内航の景気が60年秋から回復し、その後の平成景気(約5年、平成4年末まで)を謳歌するのである。
 「60年初めに、円高不況で船主さんからの売船の話がよく持ち込まれました。不況は痛いが、これを逆に生かしていこうという発想から、青野海運もケミカル船に進出しなければと考えたのです。銀行から持ち込まれてきた物件は全部買いました。今までにもアルミカス処理船、近海ケミカル船など引き合いがあり、699G/T型鋼材船の話が持ち込まれたがいずれも成立しなかった。現社長の体制になっていたので積極的な展開がとれたのです」と(青野日美副社長)

神栄丸  (昭和61年7月10日)
神栄丸  (昭和61年7月10日)
神栄丸  (昭和61年7月10日)
第8神栄丸  (昭和62年7月1日)
第1光輝丸  (昭和63年1月30日)
第1光輝丸  (昭和63年1月30日)

積極的に新規荷主を開拓

 青野海運の社長は慎重派と積極派が交互に就任してきた。あたかも隔世遺伝の如しで、創業者の重松は慎重派、2代目・市太郎は積極派、3代目・重馬は慎重派、そして4代目・正は積極派だった。それも市太郎以上の積極派で、脱・新居浜、脱・薬槽船を標榜し、全国を舞台とする総合運送業者への飛躍を目ざした。正社長の時代になってから、ケミカルタンカー(有機化学〉、油送船(黒油)などへ船種の多様化を図るとともに倉庫・陸運業などに進出し、業域を広げた。重松・市太郎・重馬の3代にわたってひたすら『新居浜とともに』を至上命令として歩んできた青野海運株式会社は、正の時代になって新味を盛り込み方向転換を始めた。
 正の積極策は、新規荷主の開拓につながった。船種の多様化は荷主の多様化を意味した。例えば住友化学のケミカル(有機化学)タンカー部門では、田渕海運株式会社が元請として圧倒的なシェアを持ち、青野海運株式会社はメタノールなど一部のケミカル輸送を任されただけだった。住友化学工業株式会社では『無機の青野、有機の田渕』という暗黙のシェア配分があり、青野海運がケミカルタンカーに本格進出するには新たな開拓が必要だった。

評価された真面目な仕事ぶり

 もっとも荷主開拓はそう容易ではない。内航業界は元請輸送制度のタテ割社会であり、一部のスキもない。そこで同業者に船を預けることから始め、ケミカルでは61年3月に楢崎産業株式会社に、石油では62年3月にゼネラル海運に新造船を貸渡した。新しい取引の開拓にはあらゆるルートをたどった。
 「『第3神栄丸』をゼネラル石油に入れましたが、これはゼネラル石油の四国代理店の久保正視さんの紹介でした。新居浜商工会議所で父(重馬)が会頭のとき、久保さんは副会頭をしていて親しい間柄でした。だが、そうすんなりといったわけではない。最初、ゼネラル石油を訪ねたときは話は聞きましょうという程度で仕事もなかなか回ってこなかった。しかし、少ない仕事量でも真面目に取り組んだため、好感を持たれるようになり、2年後には代替で2,000kl積みの船を造ってほしいと要望されるようになりました。現在はゼネラル石油さんで白油船2隻を使って頂いています」(日美副社長)。
 
 

 

 
第3光輝丸  (昭和63年3月21日)
第3光輝丸(昭和63年3月21日)

はらはらした慎重派の重馬

 こうした正社長・日美副社長の積極策に対し、石橋をたたいても変な音がしたら渡らないのではないか─とまで言われた先代の重馬はハラハラした。正に社長を譲り、自分は会長に納まったものの「危なっかしいから判を戻せ」といったこともしばしばだった。しかし、そう言われたといってスンナリ判を渡す正ではなかった。そこでじっくり話し合った結果、路線の変更を認め「無理せん程度にやれ」ということで落着した。重馬と正とのやり方は事業展開だけでなく、社員の処遇、厚生面などでも考え方がかなり違っていたが、1年後には重馬はすべての面で納得し、正に全権を任せた。そして自分は週に4日間出社して、手先の運動になるからということで伝票を1枚1枚チェックし、正を助けた。重馬は社長の重責から解き放たれたため、厳しい表情も消え、老境に入ったこともあって笑顔で社員に話しかけるなど和やかで、安心立命の境地にあった。

船舶貸渡業の共栄を設立

 昭和60年は、11月に営業面では宇部興産株式会社から住友化学工業株式会社愛媛工場へ液体アンモニア輸送を手がけ、『第75金光丸』を配船した。また、住友アルミニウム製錬株式会社が住友化学工業株式会社に譲渡されることになり運送契約の変更(12月)があった。機構、役員人事では光年が丸重興産株式会社代表取締役、日美が丸重海運株式会社代表取締役に就任(10月)、船舶貸渡業の子会社「共栄」を設立(12月)。傘下子会社は4社となり、経営の多角化を図った。
 なお、60年10月には重馬の末弟で専務だった青野節夫が病気のため亡くなっており、世代交代の感を深めさせた。節夫は終戦後すぐの20年12月に青野海運に入社以来、つねに市太郎、重馬の手足となって活躍してきた。正の後楯としてこれからというときだっただけに惜しまれた。
 役員人事面では昭和61年に青野日美専務、日野邦雄、真鍋米一両常務体制をとり、加藤嘉彦が取締役就任、平成元年には横内竜行が取締役に就任した。横内竜行は58年7月に住友アルミニウム製錬株式会社から丸重興産株式会社に入社したもので、もともと工業化学畑育ち、化学製品の性質について専門知識があり、タンク製造には打ってつけの人材。

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