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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

肥料製造所の製品輸送

 四阪島への製錬設備の移転によって、 排出された煙は20キロメートルの海を渡って陸上に届くまでには、大気中に霧散するだろうと考えられていた。 ところが、 明治37年10月 に試験操業が開始されると煙害の声があがり、明治38年1月の本操業で越智・周桑の村々からの煙害の訴えが高まった。 明治39年から40年にかけて次第に激しくなり、惣開製錬所時代よりむしろ範囲 は広がった。
 このため住友では煙害防除対策に乗り出し、硫化鉱からの硫酸製造以外にはないと研究を続けた。 煙害を防止するだけなら鉱石を売却する方法もあるが、住友が硫化鉱を自焼し、副生する硫酸から過燐酸石灰をつくれば、 農家に安い肥料を供給できる。 煙害の発生を防ぐため、地元との協定で焙焼鉱量を年550万貫(20万6,250トン) に制限され、 3年ごとに鉱量を決めていくことになり、銅を増産するためにもその研究が急がれた。社内的にいろいろ異論が出たが惣開に肥料製造工場の建設が決定した。
 
 

 

 
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四阪島製錬所(明治末期)
住友別子鉱山史より

住友化学の母体・肥料製造所

 大正2年に、住友家の事業として新居浜に肥料製造所(住友化学の前身)が設立された。惣開に7万8,000平方メートルの敷地を予定し、塔式硫酸設備、硝酸設備を設け、過燐酸石灰および配合肥料(年産7万5,000トン)の工場を建設する計画が立てられた。大正4年1月を販売問始とし、建設工事が始まった。途中、第1次大戦が勃発し、ドイツからの機械類の入荷ストップで一部計画変更となったが、同年10月に最初の肥料が出荷された。注文は売り出しの日から殺到する状態であり、第1次大戦によって肥料や濃硫酸の需要は海外にも及び、増産のために設備の増強が続けられた。
 青野回漕店が肥料などの製品輸送に当たったのは大正6年5月から。取引業者としての真面目な態度が認められたためである。最初の間はまだ遊び程度の輸送量であったが、堅実な仕事ぶりによって次第に輸送量を伸ばしていった。原材料や薬品、肥料などが主な貨物で、航路は地元の愛媛、香川をはじめ。阪神、中国、九州方面まで広がった。さらに他の業者からの仕事も引き受けるようになり、新居浜の青野回漕店の知名度は一段と高まっていった。

新居浜の21人の偉人とは、村尾懐橘(天保、嘉永時代の俳人)、三木左三(幕末の尊皇家.医師)、矢野粂雄(明治時代、ニューヨーク大学に留学し日本人として最初の大学教授となる)、遠山石山(明治時代、地方の青年教育に力を注ぐ)、広瀬宰平(別子銅山の近代化に貢献)、飯尾麟太郎(地方産業の振興に努力し、養蚕を奨励)、村上桂策(地方自治の振興に心を注ぐ。貴族院議貝)、藤田達芳(政治家、塩専売法制定に努力)、山内幾太郎(画家、政界で活躍)、高田道見(僧侶、瑞応寺中興の師)、小野寅吉(政治家、殖産、文教面で貢献)、広瀬次郎(わが国養蚕界の権威者)、西原宷一(憲政会の重鎮として活躍)、白石誉二郎(新居浜市の初代市長)、伊藤述史(外交官、初代情報局総裁)、田宮嘉右衛門(神戸製鋼所五代目社長)、藤田新治(剣道範士).藤田若水(弁護士、政治家)、近藤浪太郎(地 方農業の発展に尽くす)、青野市太郎、野口菊松(耕地整理に尽力)。

肥料輸送が青野回漕店に集約

 大正9年1月26日付の「肥料運送譲渡契約証」によると、重松と共同で事業を行っていた他の2人が、その権利 を重松に譲渡したことが記されている。その内容は──。
 「これまで3人共同にて住友肥料運搬請負を行ってきましたところ、決算上繁雑につき、3人協議して青野重松氏が費用一切を引き受け、青野庄兵衛、青野吉松両人に1ヵ年の純益として1人につき170円と定め、大正9年上半期6月末日85円、下半期85円支払うものとする。その他責任が発生したときは青野重松氏が引き受ける」
──という条件によって肥料運送請負が青野同漕店に集約された。肥料販売は第1次世界大戦後の不況から関東大震災(大正12年)の一時的な好調期を除いて昭和6年頃まで慢性的な不況が続いたため、輸送規模の小さな業者は自然に淘汰されていった。
 住友の肥料販売は産業組合と農会を主とし、それを補うため各地方に特約店を設けていた。だが、この二本建ての販売は産業組今などの力が弱かったので特約店の販売が主流となっていた。特約店は各地方の有力者や素封家が多かった。市太郎は輸送区域の特約店に自ら出向いて製品の品質を確、受け荷主の信用を高めていった。
 住友肥料製造所は大正10年2月、住友総本店が組職を改めて住友合資会社になったのに伴い、住友合資会社肥料製造所という社名になった。住友肥料製造所と運送請負契約を交わしていた青野回漕店は住友合資会社肥料製造所と改めて契約した。肥料製造所からの連絡によると──。
 「拝啓、貴店益々御隆盛之段奉賀候陳者今般御案内ノ通り住友肥料製造所業務並ニ権利義務一切ヲ住友合資会社ニ於テ継承大正10年2月26日ヨリ住友合資会社肥料製造所ノ名義ヲ以テ従前通り営業致候事卜相成候ニ就テハ乍御手数別紙承認書ニ御記名御調印ノ上折返シ御返送被成下度此段奉願候、敬具」
──とある。大正時代の文面で分かりづらいが、請負業務継続のため承認書に記名、捺印してお送り下さいというもの。

 
 

 

 
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青野回漕店の従業員、前列中央が青野市太郎
後列、左端が青野重馬

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龍宮神社 青野組、森実組、田淵商店、
丸亀組の四社にて建立(明治)

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