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四阪島への製錬設備の移転によって、 排出された煙は20キロメートルの海を渡って陸上に届くまでには、大気中に霧散するだろうと考えられていた。 ところが、 明治37年10月 に試験操業が開始されると煙害の声があがり、明治38年1月の本操業で越智・周桑の村々からの煙害の訴えが高まった。 明治39年から40年にかけて次第に激しくなり、惣開製錬所時代よりむしろ範囲 は広がった。
このため住友では煙害防除対策に乗り出し、硫化鉱からの硫酸製造以外にはないと研究を続けた。 煙害を防止するだけなら鉱石を売却する方法もあるが、住友が硫化鉱を自焼し、副生する硫酸から過燐酸石灰をつくれば、 農家に安い肥料を供給できる。 煙害の発生を防ぐため、地元との協定で焙焼鉱量を年550万貫(20万6,250トン) に制限され、 3年ごとに鉱量を決めていくことになり、銅を増産するためにもその研究が急がれた。社内的にいろいろ異論が出たが惣開に肥料製造工場の建設が決定した。 |
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四阪島製錬所(明治末期)
住友別子鉱山史より
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住友化学の母体・肥料製造所 |
新居浜の21人の偉人とは、村尾懐橘(天保、嘉永時代の俳人)、三木左三(幕末の尊皇家.医師)、矢野粂雄(明治時代、ニューヨーク大学に留学し日本人として最初の大学教授となる)、遠山石山(明治時代、地方の青年教育に力を注ぐ)、広瀬宰平(別子銅山の近代化に貢献)、飯尾麟太郎(地方産業の振興に努力し、養蚕を奨励)、村上桂策(地方自治の振興に心を注ぐ。貴族院議貝)、藤田達芳(政治家、塩専売法制定に努力)、山内幾太郎(画家、政界で活躍)、高田道見(僧侶、瑞応寺中興の師)、小野寅吉(政治家、殖産、文教面で貢献)、広瀬次郎(わが国養蚕界の権威者)、西原宷一(憲政会の重鎮として活躍)、白石誉二郎(新居浜市の初代市長)、伊藤述史(外交官、初代情報局総裁)、田宮嘉右衛門(神戸製鋼所五代目社長)、藤田新治(剣道範士).藤田若水(弁護士、政治家)、近藤浪太郎(地 方農業の発展に尽くす)、青野市太郎、野口菊松(耕地整理に尽力)。 |
大正9年1月26日付の「肥料運送譲渡契約証」によると、重松と共同で事業を行っていた他の2人が、その権利 を重松に譲渡したことが記されている。その内容は──。 |
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青野回漕店の従業員、前列中央が青野市太郎
後列、左端が青野重馬 龍宮神社 青野組、森実組、田淵商店、 丸亀組の四社にて建立(明治) |
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