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第四章 復興期(戦後)住友企業の発展とともに

タンク船5隻で再出発

大きかった戦争の被害

 終戦によって住友鉱業株式会社はすべての海外事業所を失った。再建へ向けて金属部門の中核となるべき別子、鴻之舞などの国内事業所は、戦災などによる直接の被害は受けなかったものの、戦時中に増産に次ぐ増産を強行させられたため別子銅山の荒廃は著しかった。鴻之舞鉱山は金山整備によって坑外施設の製錬所などが他に転用されていたので直ちに操業が再開できる状態ではなかった。
 住友化学工業株式会社の場合は、肥料、医薬品、染料などの製品とそれらの諸原料を生産するのが本業であり、事業の継続には問題なかったが、軍需品を主体としていた軽金属製造所は生産再開が危ぶまれていた。さらに新居浜製造所や大阪製造所(昭和19年に住友化学工業と日本染料製造株式会社が合併し、日本染料工場が大阪製造所となる)の荒廃ははなはだしく、生産再開に入れる状態ではなかった。
 一方、戦争によるわが国海運の被害は甚大であった。1,000万G/Tあった船腹は、終戦時にはわずか150万G/Tしか残っていなかった。
 機帆船については、6万G/T(約500隻)が被害を受けた。その大半は、戦時海運管理令(昭和17年3月)によって国家使用船となった150G/T以上の大型機帆船で、石炭、鉱石、鋼材、石灰石などの輸送に当たっていた船である。これに対して50G/T以上の機帆船は地方物資の輸送に当たっていたため被害は比較的少なかった。戦時中の機帆船の船腹量は『船舶運営会・会史』によると、昭和17年4月時点で25,960隻、99万2,768G/Tで、このうち機帆船は2万2,153隻、81万4,447G/Tであった。隻数では機帆船の68.9%が20G/T未満、150G/T以上は4%に満たなかった。
 連合軍の進駐が始まると、日本の船舶はGHQ(連合軍総司令部)の管理下に置かれた。GHQの中にSCAJAP(日本商船管理局)が設置され、その代行機関として船舶運営会が配船、運航、船員の配乗などを一元的に管理した。そんな厳しい制限の中で、100G/T以下の汽船と機帆船は自主運航が認められた。
 青野組の戦後の持ち船は50~60G/Tクラスの硫酸輸送タンク船5隻。つまり、『第5』、『第7』、『第8』、『第11』、『第13』の5隻の『光輝丸』だった。青野組のタンク船は小型だけに空襲などによる直接の被害はなかった。相当老朽化はしていたが、青野組が戦後の再出発を図るのにたのもしい存在であった。
 
 

 

 
 SCAJAPのあった富国生命ビル
SCAJAPのあった富国生命ビル

青野春歳、節夫が入社

 この船で青野組の再建が始まった。昭和20年には青野春歳、青野節夫が入社した。春歳は市太郎の末弟で経理・総務などを担当(昭和30年に取締役就任)、市太郎の四男である節夫(元専務取締役)は営業を受け持ち、市太郎と重馬をサポート した。
 
 

 

 
昭和19年当時の青野一族
昭和19年当時の青野一族
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