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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第三章 激動期(戦前)太平洋戦争で苦難の道

深刻だった機帆船事情

 戦争拡大に伴い、従来のような一港一店式の統制機構では対応できなくなったため、昭和18年9月『全機連』に代わって『木船海運協会』が設立された。各県に支部を設け、大手汽船系の14社とともに政府は木船海運協会支部を運航実務者に指定し、海上輸送の実務を木船海運協会の指定業者に下請けさせた。

愛媛機帆船運送常務に市太郎就任

 このため、一港一店の統合体である『愛媛県回漕統制組合』を廃止し、回漕業の実務を取り扱う『愛媛機帆船運送株式会社』が昭和19年3月に設立された。先の『新居浜海運株式会社』は吸収合併され、愛媛機帆船運送の新居浜支店となった。
 同社は本社を松山市千舟町に置き、資本金は200万円。社長は関谷勝利(元衆議院議員)、常務取締役は青野市太郎、橋本清一、取締役は白石伍録、野波福次郎、森実元知、向井三次、松本金五郎、武田鹿一、矢野宇多一、塩崎初延、山村鹿松、木村又三郎であった。
 市太郎が常務に選出されたのはその手腕が広く認められ、周囲の信頼も厚かったためである。新居浜から松山までの通勤では市太郎はしばしば自転車で出掛け、周囲の人を驚かせた。

無機薬品輸送では独自の道歩く

一方、液体工業薬品槽船運輸統制は、昭和19年4月になって統制強化のため、海運総局から資本の合同を急ぎ名実共に合併会社となるように指示があり、これを受けて『日本薬品槽船株式会社』を設立した。しかし、青野組は参加しなかった。住友化学工業株式会社の要請があったことにもよるが、終戦まで自己経営を続けた。
 この頃の機帆船事情は惨憺たるものだった。新居浜地区の関係者はこう伝えている。
 「太平洋戦争に突入してから後は、優秀船はほとんど軍部に徴用され、資材そのものも不足していて、新船の建造はもちろんのこと、小さな修理といえども容易にはできなかった。そのため、船腹は著しく不足していた。本来なら港湾の瀬取り荷役用である艀船を、遠く阪神や九州方面まで曳航していき、船腹不足をカバーした。さらに木材類を運ぶ場合は筏に組み、これに貨物を満載している機帆船に曳かせるなどの方法までとられていた」

割り当て少なく燃料油に苦労

 「機帆船の燃料油不足は深刻だった。配船の仕組みは、まず翌月分の輸送申し込みを、その月の15日までに集約し、輸送計画を作成して20日までに提出、地区海運組合を通じて配給を受けていた。政府の指示物資である肥料、工業薬品などは主務省が、地方物資といわれる一般物資用は県が割り当てる制度であった。肥料や工業薬品などは計画に近い出荷量があったが、農林水産物などの一般物資は当初計画通りになかなか出荷されず、割り当て燃料油にはかなりの過不足が生じていた。また、配給の重油はほとんどが劣悪なC級品で、冬場には支障をきたしていたし、潤滑油も不足していた。機関の修理が不十分だったため、規定の方法で算出した燃料油量では計算通りの航海はできず、不足分は闇油を入手して補充しなければならなかった」
 「運賃事情をみると、新居浜の各工場から出荷される生産品はほとんどが軍需品や公団取り扱いの肥料など。昭和19年11月に海上運賃公定料金が決められてからは、新居浜地区のほとんどの機帆船は公定科金に縛られていた。一方、支出の方をみると、必ずしも公定価格は守られていず、船舶の修理や属具は公定価格による割り当てを待っていれば半年以上もかかる。これでは不稼動となるので、やむを得ず闇の方法で不当な代価を支払わなければならなかった。そのうえ闇油を人手しなければならない時などは、油代を支払うとその航海は赤字であり、何のために船を動かしているのかと思えることがしばしばだった」ただし、地方によっては闇物資の荷動きが相当あり、闇運賃による、にわか成金もかなり出ていたようだ。
 馬鹿正直と自らいう市太郎は、公定価格を守り、何度もこうした苦い体験もした。闇運賃をとるなどのあこぎなことができるわけがなかった。後年、市太郎は「戦時下の統制によって物資が不足する中で、青野はまっとうな仕事をしすぎると、会社を辞めていった社員も何人か出たほどでした」と苦難の時期を語っていた。
 「しかし、苦難のときほど蓄積した底力を出さなければいけません。力を振り絞って苦境を切り抜け、住友さんの御用を全うすることができました」とも。心の底から信仰を持つ市太郎は、苦しい中でも小利口に立ち回ろうという気持ちはさらさらなかった。これは青野組の本陣を守っていた重馬にしても同様であった。
昭和16年正月/会社員
昭和16年正月/全社員)
源福丸(昭和17年11月)
源福丸(昭和17年11月)

第3推進丸(昭和19年11月)

第3推進丸(昭和19年11月)

港湾事業で新居浜港運に参加

 港湾での統合も進んだ。新居浜港の港湾運送業者も統合され、『新居浜港運株式会社』が設立された。青野組もそのメンバーで、ほかに森実組や浜栄組、住友鉱業株式会社(昭和12年6月に改称)の担当部門、桑原回漕店、塩出組、金栄丸回漕店などが合併した。本社事務所を森実組の中に置き、新居浜港での船内荷役をはじめ沿岸荷役、艀運送を行うとともに船舶代理店業務などの港湾業務に携わった。
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青野海運グループ史

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