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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

元禄4年に別子銅山稼

この住友家と別子銅山・新居浜が結びついたのは元禄時代のことである。住友家は諸国に手広く銅鉱山を経営していたが、元禄3年(1690年)6月、『切上り長兵衛』という阿波生まれの廻切夫(まわりきりふ=鉱石採掘夫)が、住友が経営する銅山の1つである吉岡銅山へ支配人・田向重兵衛を訪ねたのを機に急転回する。
 「伊予の幕府領である宇摩郡別子山村に大きな銅の露頭(やけ)らしいものを見付けた」―と伝えたのだった。露頭とは鉱脈が地上に露出しているところで、採鉱技術が確立されていなかった当時の鉱山発見は、露頭が有力な手掛かりであった。長兵衛は坑道を上向きに掘り進むのが得意で、そのため、『切上り』の異名をとった。彼は腕達者な渡り坑夫で銅山を転々としていたが、かつて吉岡銅山で働いていた時に、田向重兵衛に恩義を感じて、別子銅山の大変重要な情報をもたらしたようだ。田向重兵衛は、初めは半信半疑だったが、吉岡銅山が次第に衰退し、出鉱量が減少していたこともあって調査を開始した。銅山の調査というのは雪の降る冬場や草の繁茂する夏場は困難である。9月(旧暦)になって木の葉が散り山歩きがしやすくなるのを待って調査隊は出発した。別子山村は平家の落人がひそかに暮らしていた深山だけに、大変な苦労を重ねた。ようやく露頭らしい物が見付かった。周囲は木々の密生した密林なのに、そのあたりは赤土が露出し、草も生えていない。こうして豊富な鉱脈が発見された。  採取した鉱石を大阪の本店に持ち帰り、豊富な銅含有を確認し、幕府に別子銅山の稼働請負願いが提出された。元禄4年5月に認可され、別子銅山は稼働した。最初に開発された坑道は歓喜間符(かんきまぶ)と名付けられた。発見当時の喜びが込められたものであった。
 
 

 

 
001
別子鉱山鉄道上部線
 
002
明治15年頃の別子銅山
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