第五章 成長期(昭和30年代)経済成長の波に乗って
経済復興に伴って青野海運株式会社にも新しい貨物が増えてきた。晒液と塩酸を昭和31年7月と11月からそれぞれ輸送開始した。いずれも住友化学工業株式会社・菊本製造所の要請によるものであった。晒液は紙の漂白剤となり、三島、小松島などの製紙会社向けに運んだ。輸送先は主に四国内で小ロットであり、小型船を使用した。
塩酸の輸送ではゴムライニングを施したタンク2基を製造し、徳山~菊本間の輸送に当たった。当時、内航の塩酸タンク船はまだ1~2隻程度しかなかった。塩酸タンクはピンホールができるとすぐ腐食するだけに、つねに慎重にチェックを行った。エア抜きのパイプから塩酸が流れ出し、港に引き返してきた船もあった。ゴムとゴムをつないでいる部分が傷み、タンクの鉄の部分が溶けて水素ガスが発生、ライニングしたゴムが風船のように膨み、積み荷の塩酸を押し出すケースもみられた。しかし、すでに硫酸、硝酸タンクでパイオニアをつとめた青野海運株式会社はそのキャリアを生かして、一つ一つの問題を解決していった。
昭和31年12月には、大阪市此花区梅町3丁目2番地に桜島出張所を開設した。住友化学工業の桜島中継所での物流業務を行うためだった。 8月には貸渡業の子会社として丸重海運株式会社を設立した。船腹を拡充し、輸送力強化をするのがねらいだった。
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桜島出張所(昭和31年12月30日) 双葉運輸の事務所の一部を借用
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