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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

管理部門を分離、丸重興産株式会社設立

 経済企画庁が「景気底離れ宣言」を行ったのは58年7月だった。しかし、景気回復のリード役となったのは鉄鋼、化学など素材産業ではなく、エレクトロニクスや情報通信関連、省力機器関連の各産業に代わっていた。いわゆる『軽薄短小』産業であり、内航の貨物輸送量にはほとんど寄与しなかった。青野海運株式会社でも50年度から59年度までは19億~20億円の売り上げで推移した。

営業所、出張所を効率化

 この間、積極的な営業努力も展開した。 54年10月には住友化学工業株式会社愛媛製造所から鹿島の武田薬品工業株式会社向けの混酸Bの輸送を開始した。第1船は『なかえい丸』(船主・馬越喜己男)であった。 55年には『金光丸』(船主・徳重一久)が7月に株式会社藤原造船で進水、住友化学工業株式会社の苛性ソーダ輸送に当たった。8月には住友化学工業株式会社の積荷保証により硫酸専用船『第7恭海丸』(船主・恭海海運)が大内造船所で進水。住友金属鉱山株式会社東予製錬所から宇部チタン向けに就航した。機構面では東京営業所移転(54年8月、東京都中央区八重洲2-4-6、松嶋ビル)、大分出張所移転(54年10月、大分市小中島1627番地)、大阪営業所移転(56年3月、大阪市淀川区西中島3-18-3、南極ビル)と 立地面、設備面での効率化を図った。
 役員陣でも充実、刷新を狙って56年3月、子飼いの日野邦雄、眞鍋米一を取締役に選任した。ともに26~30年のキャリアがある青野海運株式会社の『大番頭』で日野邦雄は営業面で、眞鍋米一は経理面で会社の発展に貢献してきた。
 丸重商事株式会社(37年2月)、丸重海運(52年12月)に続き57年3月には丸重興産株式会社を設立した。青野海運株式会社の管理部門を独立させ、不動産や船舶などの管理を担当する会社であった。4月1日の役員人事では青野正が専務取締役に就任、高橋延男が丸重興産株式会社代表取締役、青野溥が丸重商事株式会社常務取締役、青野光年が丸重興産株式会社常務取締役に就任した。
 
 

 

 
日野邦雄
日野邦雄
眞鍋米一
眞鍋米一

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