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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第四章 復興期(戦後)住友企業の発展とともに

硝酸のタンク船輸送開始

朝鮮特需で活気づいた産業界

 昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発、『朝鮮特需』を誘発し、日本の産業界を活気づかせた。機帆船は米軍に用船され、かなりの隻数が朝鮮に向かった。日本沿岸での輸送も活発化し、各地の船どころで係船されていた貨物機帆船が一気に動き出した。
 艀で肥料類を阪神方面に輸送していた青野海運社は、一般貨物(ドライカーゴ)部門の輸送は新居浜海運株式会社に移行して、需要の回復とともに本来の主力業務である薬品タンク船の輸送に重点を移し始めていた。昭和25年には日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)新居浜製造所の要請により、『宝力丸』を使用して硝酸のタンク船輸送を開始した。このため筒型横置式アルミニウムタンク2基を製作して設置した。
 
 
 

 

 
 朝鮮動乱(昭和25年6月)朝日新聞社提供
朝鮮動乱(昭和25年6月)朝日新聞社提供

アルミニウムタンク独自開発

 ちょうど硫酸のほか、塩酸、硝酸と品目も増え、輸送量も増加していた時期に当たっていた。薬品タンク船の最大のポイントはタンクの開発であった。戦前、硫酸タンク船就航までに市太郎が苦労したように塩酸や硝酸輪送でも関係者の苦労は並み大抵ではなかった。  中でも硝酸輸送は他社ではほとんど手掛けていなかった。硝酸のタンク船輸送でも青野海運社がわか国で初めてだった。そのため硝酸用のアルミニウムタンクを独自に開発しなければならなかった。工務担当は永易吉示(営業兼任)や田中猛らであった。
 「住友化学工業株式会社から硝酸についての資料や材質の研究データを提供してもらい研究を重ねました。アルミニウムは純度が高いと硬度が低くなり、引っ張り強度が不足する。陸上のタンクで参考になるのは材質的な面だけで、海上でのピッチングやローリングに対応するため、問題が生ずるごとに、住友化学工業株式会社の技術陣と協議を重ね、アドバイスを受けながら解決していきました。」(田中猛)
 陸上のタンクを製造する場合、法規で強度計算式が定められている。しかし、海上で使うアルミニウムタンクの仕様は皆無で監督官庁に問い合わせても明確な答えは返ってこなかった。仕方なく硫酸タンクを参考に底辺にかかる比重分の圧力、外圧の計算を鉄タンクの強度計算方式で便宜的に割り出し、タンクの高さを幾分縮めて設計した。しかし、前例がないので運輸省の許可がなかなかおりない。
 最終的にはアルミニウムの肉厚などの強度計算をし、船舶のタンク規制に合わせた図面を提出してやっと承認された。タンクに使うアルミ材はアルミ純度が99.7%のものを用い、肉厚は12~16ミリ。テスト段階では硝酸の代わりに水を積んで何度も水圧試験を繰り返した。これでタンクの目途はついたが、もう一つ課題が残っていた。タンクを艙内にどのように固定するか、ということであった。鉄のベルトで固定すると鉄とアルミタンクとの接触面で腐食が起こる可能性があった。そこで海水をかぶらないようカバーをつくり、ペンキを塗って保護した。こうしてやっと硝酸のタンク船輸送が実現した。もっとも硝酸タンクは2年に一度ある船の定期検査まで使えればいい方だ、というぐらいの感触だった。
 
 

 

 
硝酸用アルミタンク
硝酸用アルミタンク

別府化学工業株式会社の製品輸送

 住友以外の輸送では昭和25年に別府化学工業株式会社(現住友精化)の輸送を請負った。同社は、日新化学工業株式会社(現:住友化学工業株式会社)と株式会社多木製肥所の共同出資で設立された会社で前身は住友多木化学工業。昭和21年4月に社名を地名に因んで別府化学工業株式会社に変更した。株式会社多木製肥所はわが国で初めて人造肥料を手掛けた会社で明治18年、兵庫県加古郡別府村(現加古川市別府町)で骨粉を原料にした人造肥料の製造を始め、その後、大正、昭和を通じて過燐酸業界で重きをなした。昭和13年から硫酸工場が稼働し、新会社設立を経て戦後も硫安の販路拡大に力をそそいでいた。
 青野海運社と同社との縁は従来から住友鉱業株式会社の四阪島製錬所から同社へ硫酸を輸送しており、その仕事振りを買われて別府化学工業株式会社もタンク船による輸送を依頼してきた。

浜栄港運株式会社と共同体で港湾作業

 新居浜では港湾運送再編の動きも出て来た。港湾法の改正(昭和25年3月)に伴い、新居浜港でも港運業者の複数制を実施することになった。それまでは昭和19年に企業整備令と港湾運送業等統制令に基づいて『新居浜港湾運送』の独占だったが、同社と浜栄港運株式会社・青野海運社の共同体が港湾作業に当たるようになった。この時、青野海運社と浜栄港運株式会社との契約内容は次のようになっていた。
一、 新居浜港における港湾運送事業については、作業関係一切は浜栄港運が当たり、艀船の運航一切は青野海運社が分担するものとする。
一、 両社の所有する艀船の増減については両社協議の上、これを行う。
一、 運賃の取り下げに関しては浜栄港運株式会社がこれに当たり、事務分担金を差し引き、青野海運社に支払うものとする。
一、 本契約事項中変更を生じたる場合には双方協議の上、決定なすものとする。
一、 本契約の実施は昭和25年5月1日よりとする。
 という内容であった。当時の艀船の運航は社船4隻(『10光』、『12光』、『18和』、『22和』)を含め8隻あった。
 
 

 

 
昭和25年当時の社員一同(1月1日、金光教の教会前で)
昭和25年当時の社員一同
(1月1日、金光教の教会前で)

共栄物産株式会社の経営肩代わり

 青野海運社では12月、新居浜の有志が設立した『共栄物産株式会社』の経営を肩代わりした。住友の電気銅、ニッケルなどを販売する会社であった。それが経営破綻し、購入代金が支払えない状態に陥り、知り合いの井華鉱業株式会社の部長が困っているのを見て、市太郎が男気を出して借金を支払い、経営を引き受けることになったものだった。また、市太郎はこの年、新居浜商工会議所会頭に選出された。
 一方、海運業界も息を吹き返しだした。機帆船の中央団体である全国機帆船組合総連合会(第3次)が昭和26年7月に設立され、①機帆船燃料油の増配確保と地域的格差の是正②機帆船の新造ならびに改修に対する融資の開拓③木船の船体保険の再保険ならびに積荷保険料の軽減④機帆船事業に対する課税の合理的軽減─などの活動を始めることが決議された。
 しかし、出鼻をくじかれる事態が起こった。この年の10月13日から15日にかけてルース台風が西日本一帯を襲ったのである。死傷者3,500余人、田畑の被害1,285平方㌔㍍。全機連調べによる木船の被害は①沈没が204隻、1万1,166G/T、②破損が300隻、1万7,264G/T─合計で504隻、2万8,430G/Tにものぼった。被害の大きかった県は鹿児島、山口、高知、福岡、広島、愛媛、熊本、香川、長崎など。幸い、青野海運社では大きな被害は受けなかった。翌年、ルース台風の復旧資金融資が機帆船にも適用された。機帆船に政府の特別融資が行われたのはこれが初めてであり、初の内航対策として注目された。

東亜燃料の廃酸を新規輸送

 昭和27年4月、日本は主権を回復し、産業界にも雪解けがやって来た。別子鉱業株式会社は6月2日、社名を住友金属鉱山株式会社に改称、社章もイゲタマークを復活した。日新化学工業株式会社も8月28日、社名を住友化学工業株式会社に戻した。
 この頃大阪出張所では東亜燃料工業株式会社の廃酸を有田から和歌山(南海化学工業株式会社)へ運ぶ新規の仕事を手掛けた。キッカケは南海化学工業株式会社の紹介によるものだった。廃酸はなかなか難物だが、タンクに濃硫酸を2回ほど積むとタンクがきれいになり、無機タンク船には適した貨物だった。同業者取引でのニーズもあり、辰巳商会のアンダーとして廃酸専用船の『第6宝生丸』で三井金属鉱業株式会社の硫酸を運んだこともある。
 
 

 

 
昭和26年12月建造の「かもめ」
昭和26年12月建造の「かもめ」
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