グループ本社 〒792-0003 愛媛県新居浜市新田町1丁目1番17号 |
44年に本社ビルが竣工 |
完成当時の本社ビル |
本社ビル完成を祝して
社員一同が贈った胸像 青野重松像 |
青野市太郎像 |
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昭和45年は万国博覧会(開幕・3月14日)と新日本製鐵株式会社発足の年だった。景気は45年春頃から下降し、秋には、各産業とも生産調整が表面化した。中でも11月の鉄鋼減産は内航を直撃し、内航総連合会は12月期の建造公募を急遽延期し、以後貨物船の公募を約2年半中止した。
しかし、無機薬品分野は順調に推移し、青野海運株式会社は依然、売り上げを伸ばした。経常利益も3,000万~4000万円を上げ、四国の企業の中でも業績の良さでは屈指だった。この年9月には住友化学工業株式会社の液体アンモニア増産計画に対応して 『第2栄徳丸』(船主・村上桂)を村上秀造船株式会社で進水させ、11月には住友化学工業株式会社、製鉄化学工業の指示により住友千葉化学工業出荷の液体アンモニア輸送に当たった。 役員人事では監査役の高橋延男が取締役に就任した。高橋延男は市太郎の妹をめとり、市太郎は義兄に当たるが、市太郎から「丸重商事を立て直してほしい」との依頼を受け就任した。住友金属鉱山株式会社を38年間勤め上げたあと住友別子病院の事務長に転身後、青野海運株式会社に移った。丸重商事株式会社(昭和37年2月設立)は経営不振だった共栄物産株式会社を、市太郎が23年に肩代わりして経営してきたが、従業員が3人で、銅ニッケルなどを細々と販売していた程度だった。トラックがないのでスクーターに重い荷物を乗せて駅まで運んだり、他社のトラックを借りたりと苦労も多く、女子従業員を加えて3人の給料が何とか出るぐらいの経営内容。これでは尻すぼみになると、青野海運株式会社のてこ入れが始まったのである。また、監査役・加藤節次郎が死去し、青野春歳が監査役に就任した(12月)。 |
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(画像) 昭和45年3月大阪万国博覧会が開催され 6,400万人が訪れた 昭和44年7月アポロ11号月面着陸
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住友金属鉱山株式会社東予製錬所が昭和46年6月に操業開始し、青野海運株式会社は東予製錬所出荷の硫酸輸送を行った。住友金属鉱山株式会社は明治38年以来、60余年にわたって四阪島製錬所を中心に銅製錬を行ってきたが、わが国銅需要の著しい伸びに対処するため、44年から東予新産業都市臨海部の磯浦・船屋地区に新製錬所を建設していた。東予製錬所の稼働は丸重商事株式会社の営業拡大に結びついた。高橋延男が住友金属鉱山株式会社に頼んで東予製錬所の故銅滓仕分けの仕事を開拓、この構内作業に関連してトラックの営業免許を受け、陸送部門にも進出した。また、電気銅、タンパン、ニッケルの販売先を四国一円のメッキ業者にも拡大し、それに伴い、これまで東京で行っていた電気銅切断を新居浜に誘致するなど丸重商事株式会社の商圏を広げた。
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丸重商事で始めた電気銅の切断作業(昭和46年)
丸重商事が陸運部創設(昭和45年) |
住友金属鉱山株式会社・東予製錬所の稼働とともに、東では日本アンモニアが操業を開始し、その製品輸送を行った。当時、欧米でアンモニア工場の大型化が進み、わが国の肥料の最大仕向地であった中国に安値攻勢をかけていた。これに対抗して、わが国の化学工業が大型化計画を進めていた。住友化学工業株式会社でも製鉄化学工業、昭和電工株式会社、日産化学工業株式会社と提携し、アンモニアを日産1,550トン、尿素を日産1,100トン生産できる新工場を建設するため、43年に新会社日本アンモニアを設立した。工場は住友千葉化学工業株式会社の袖ヶ浦第2地区に建設され、製品はそれぞれ4社に供給された。
船腹拡充では、2月に硫酸タンク船『泉丸』(船主・福羅功)が進水した。南海化学工業株式会社の積荷保証船で、南海化学工業株式会社と古河工業間に就航した。同船は川幅の狭いところでも旋回できるとともに川を遡航できるように油圧でブリッジが上下できるように工夫された特殊船で160トン積みであった。さらに10月には『第61金光丸』が桧垣造船で進水した。同船は住友金属鉱山株式会社・東予製錬所から住友化学工業株式会社新居浜製造所への硫酸輸送を主に担当した。 |
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第61金光丸(昭和46年10月)
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