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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第八章 飛躍期(昭和平成年代)21世紀へ向け意識改革

4代目の幕開け、正社長就任

青野海運は昭和59年、創立90周年を迎えた。この区切りの年に正が代表取締役社長に就任、重馬は代表取締役会長となった。青野海運の第4代目の時代の幕開けだった。役員構成は次の通りであった。
 代表取締役会長
 代表取締役社長
 専務取締役
 常務取締役
 取締役
 取締役
 取締役  監査役
 監査役
青野 重馬
青野 正
青野 節夫
青野 日美
青野 光年
日野 邦雄
眞鍋 米一 加藤 嘉彦
守谷 幸一
 正は37歳の若さ。重馬から受けたメッセージは「私の感覚はもう古い。これからは若い者の感覚で判断し、やっていってほしい」であった。
 
 

 

 
 4代目社長に就任した  青野 正
4代目社長に就任した
青野 正

Uターン組狙い人材確保

 それを受けて正が最も必要性を感じていたのは人材確保だった。無機薬品の海上輸送の分野で青野海運株式会社の名は通っているものの、ローカル色、オーナー色を脱し切れず、優秀な人材は集めにくかった。正は企業基盤の再構築を図るには大学出身者を採用する必要性を感じていた。
 それにはまず給料を高くし、大手に引けを取らないようにするのが先決だった。給料や賞与は重馬が計算していたが、忙しさにかまけて夏の賞与の1ヵ月遅れ、年末賞与が25日すぎになることもしばしばあった。これでは社員にしても有難みが薄れてくる。正はまず、これを直さねばと重馬に進言した。その上で大学に求人を申し込んだがそう簡単に反応が出るものではなかった。そこで都会からのUターン組の大卒者に目をつけて募集した。この作戦が当たった。また、不況で苦しい折でも大卒の採用を続けた。こうした努力が実り、人材確保のチャンスを活かした。

現場勤務から育て上げる

 当時、採用した人たちがその後、部・課長となって活躍しており、青野海運株式会社を支える大きな戦力となっている。社員の代謝の一番手となったのが加藤嘉彦(取締役総務部長)。市太郎の娘の長男で、地元で就職するため、40年に大学を卒業すると同時に新居浜に戻ってきた。市太郎のすすめもあって青野海運株式会社に入社。人事、大阪営業、本社営業、総務畑を歩んだ。船員の労務管理も人事で担当していたので船員集めも行ったし、用船の船員が不足する場合には自社船の船員を乗船させたりもした。市太郎や重馬には仕事の厳しさを教えられた。船員を集めにいって5~6人を雇ってきたが、支度金、給料の前借りを支払い、1週間ほどで逃げられてしまった。叱られるのかと思っていたが、重馬に「安い授業料だな」といわれた。怒るとき、褒めるとき、慰めるときのタイミングを教わった感じがしたという。
 Uターン組の1人が香西博之(営業部長)で46年入社。家族的な会社だと聞いていたが、実際に入社しても上下の関係は感じなかった。新入社員がだれでも経験させられるように、住友化学工業株式会社の現場で硫酸、硝酸の積み込みの立ち合いをし、48年から大阪、東京で営業畑を歩んだ。荷主、商社との折衝が主要業務だった。同じ年には加藤公司(東京営業所長)も入社し、営業畑で育ってきている。正にとって同世代だけに意思の疎通はいい。

船員確保にも目を向ける

 若い社員の確保ばかりではなく、正は社長就任と同時に、船員も毎年、新卒を2人ずつ採用した。「まだ、船員不足はあまり問題になっていない時期でしたが、船員の重要性を認識していた」ためである。何人かは脱落していったものの、現在残っている船員は立派に育ってきている。

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青野海運グループ史

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