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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

静かな漁村だった新居浜

 別子銅山が開坑した頃の新居浜は、静かなたたずまいの漁村であった。『新居浜市史』では当時を次のように描写している。「新居浜の昔は事前の姿がそのままに存在していた。浜辺に立ち、沖を眺めれば、右から中洲が突き出て、抱え込むように小さな内港をつくり、よき漁(いさ)り舟の溜り場となっていた。底まですき通って見える浅いその内港を数隻の小舟が静かに白い波を立てて往来するのが見られた。
 中洲の先端から左より沖合4キロ四方ほどの小島が見えた。土地の人々は、この島を御代島(みよしま)と呼んだが、緑の松の茂みのところに白い岩肌がのぞき、島の中央には「帆掛松」と呼ばれた一段と大きい老松が泰然として茂っていた。干潮になると、海岸から2キロ沖合にあるこの御代島は州によって陸続きとなり、人が徒歩で行き来することができた。さらに御代島の沖合には漁り舟が、白い帆影を点々として美しい景観であった。このあたりは、瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ)である。
 さて白砂の海辺の土手を右に行くと、昨夜の漁(いさり)から帰ったばかりの漁り舟がつながれ、地曳網も、そこら一面に干されていた。そういえば中洲の内も外も遠浅で、藻が繁み、魚類にとっては楽園であった。そのためこの新居浜浦はまさに、内海随一の漁場であったのである。」 また、『西条誌』にも次の記載がある。

別子銅山とともに発展

「元来、御領分第一の漁場所にて、漁家240軒余、漁船あわせて80余艘あり、鯛の外に鰆、鱸その他雑魚数を知れず、此海より上り、鰆に塩を加えて大阪に積上せ、子は鮞脯(からすみ)と成して名物なり。鱸もいけ船にて、大阪に運ぶ故に、仲春より初冬迄、土地の饒栄雑踏して事他方に類少し」
 一漁村だった新居浜は別子銅山の発展とともに一変した。庄屋風の門構えの建物や瓦葺の大きな土蔵が並び他を圧倒する賑わいを見せた。住友が別子銅山で掘り出した粗銅を大阪に送る一方、別子銅山のある別子村に輸送する6,000石の米を始め、生活物資や諸資材が新居浜に参集した。
 燧灘から見る新居浜は、四国の連峰が迫り、西から東へと石鎚山、黒森山、西赤石山…と連なり、そのいずれもが標高1600メートルから1800メートルある。別子銅山はその懐深くにあり、連山からは国領川、尻無川、金子川の3本の川が海に流れ込んでいた。
 青野海運の発祥の地となった金子村は、尻無川と金子川に挟まれた一帯で、その北側の海岸沿いが新居浜浦だった。この地帯は、嘉永年間に別子銅山の支配人・清水惣右衛門が開いた土地の意から『惣開』(そうびらき)と呼んだ。『西条誌』によると当時の住人は船木村440戸、下泉川村219戸、上泉川村216戸、金子村503戸、新居浜浦村652戸であった。新居浜浦村から金子村へと南に真っ直ぐ伸びた広い道が別子銅山に通じる「登道」である。
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青野海運グループ史

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