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第一章 黎明期(明治)別子銅山の御用達商人に

2代目・市太郎も家業に従事

 煙害のため別子銅山は明治29年、惣開の製錬所を四阪島に移転することを決定した。移転建設に80万円が必要であり、別子銅山の1年間の売上高に相当する額で、思い切った決断であった。ところが明治32年8月、別子山上が山津波に襲われ、設備のすべてを崩壊した。そのため、焼鉱関係を除き、山上の製錬設備を惣開に下ろさなければならなくなり、煙害はそれだけ激しくなった。住友は四阪島への製錬設備を急ぎ、37年10月から試験創業を開始した。
 別子銅山側は、新居浜から四阪島に水を運ぶ木製の水船4隻、鉱石や資材を輸送する木船24隻を建造、これらの船を『第一四阪丸』、『第二四阪丸』の汽船2隻で曳航して輸送手段とした。あくまで住友直轄の輸送であったが、青野回漕店は別子銅山の輸送量の増大に対応、明治36年頃から阪神方面や四阪島に鉱石の輸送を始めた。
 この頃になると重松の長男・市太郎が家業を手伝い、父親の片腕となって活躍していた。市太郎は明治21年7月29日生まれ。19歳でトクと結婚していたが、一度家業を見捨てた。晩年著した回想録の『おかげ談義』で当時をこう述べている。
 「別子銅山の御用達となっても、初めはほんの名ばかりでありました。これという決まった仕事もないので、何とかしたいと、幼な友達の小間物屋の矢野さんと2人で相談して、『朝鮮に渡って一旗あげよう』ということになりました。妻と子供を残して誰にも言わず、2人でこっそりと家を出ました。下関まで行き宿に落ち着いたところへ、叔父さんが後を追って来て見つかり、2人は連れて帰られました」明治41年頃のことである。妻(トク)と子供(長男重馬)を残してというのだから20歳頃。回漕業がいま一つ思わしくなく、何とか苦しさから抜け出したいという血気盛んな市太郎の心情を物語るものであった。

家出未遂が薬に…市太郎

 「新居浜市史」は「第9編・人物」で、別子銅山の振興・近代化に貢献があった広瀬宰平をはじめ、新居浜の発展に寄与し、名を広めた21人の偉人(37項参照)を取り上げているが青野市太郎もその1人である。市太郎が、このとき引き戻されていなかったら、新居浜や海運業界に大きな足跡を残すことも青野海運の今日もなかったことだろう。
 この事件をきっかけとして、市太郎の家業に対する取り組みは、がらりと変化してきた。重松の仕事を助けるとともに、かまがら(岩塩粕)や塩、肥料を波止浜方面から積んできては売り歩いたり、洗砂やバラスを桜井(愛媛県)から仕入れてきては鉱山に納める仕事もした。越智郡桜井で採取された洗砂はとくに硬質で、四阪島向けなどに需要が多かった。「このように船でいろいろな品物を運んで商売をしておりました。それから後に、大分県の鶴崎で竹材、薪などを買い付け、積荷をして帰路は同船に乗り出港しましたが、海上は波もなく、今夜は安全と一杯飲んで上機嫌でおりましたところ、途中、大暴風に遭い、船もろとも転覆するかと思われるような状態で、私は金毘羅様のお札を背中に負って一心に拝み続け、九死に一生を得て帰りました。これに懲りて、それからはむやみに船に乗るのは止めました。」(おかげ談義)
 船に乗らなくなってからは、回漕業のかたわら醤油の商売を始め、朝早くから夜遅くまで、大八車に醤油を積んでは遠くの町や村まで売り歩いた。後年、営業的センスは抜群といわれた市太郎の商売上手も、その性格に加え青年期のこうした地道な努力によって磨きかけられていった。創業以来、10年を経て、重松・市太郎父子の努力はようやく形になり出し、青野回漕店の業績は、明治の終わり頃から着実に軌道に乗った。

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青野海運グループ史

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