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第二章 始動期(大正)タンク船の開発に心血注ぐ

新居浜港防波堤の捨て石工事

 この間、青野回漕店は住友別子鉱山株式会社の要請によって、新居浜港防波堤の捨て石工事にも従事していた。
 漁業、回船を主としてきた新居浜港は別子鉱業所の発展、肥料製造所の設立などによって原料の輸入、製品出荷で出入港船が増加し、港湾の重要性が大きくなってきていた。大正7年、当時の別子鉱業所によって新居浜築港が計画されたが、200トン級船舶の入港を前提にした小規模なものであった。第1次世界大戦後の不況のため、この計画は具体化されずに終わった。

住友別子鉱山が大港湾計画

 大正から昭和にかけ、別子銅山を根幹とする住友系諸事業の拡大で惣開を中心に物資の集散、船舶の出入は年とともに増大し、これに対応する港湾の建設が必要となっていた。住友別子鉱山株式会社は、遠浅であるため小規模計画では大型船の出入港が不可能であると判断した。御代島を西防波堤の一部として利用し、港口をその東端付近に設け、水深を倍増して一大良港を造る──という基本構想を立てた。これに基づいて①新居浜港周辺の砂洲に、港口付近や船溜りの海底土砂601万立方メートルを浚渫し、これを利用して埋め立てを行い工業用地を造成する。②910メートル(東709メートル、西201メートル)の防波堤を築造する。③船舶が直接接岸できる工場専用岸壁を建設する──などの計画が立てられた。住友別子鉱山は「沿岸工事並びに公有水面埋立」を昭和4年6月、愛媛県知事に出願、翌年免許を受けたものの、不況のために着工できず、起工は昭和8年5月となった。
 御代島東側防波堤は、砂利と砂、さらに四阪島製錬所から副生する鍰粒塊を用いたもので、わが国でもまれな大塊鍰捨て石方式で築造された。鍰(からみ)とは銅滓のことである。東西とも傾斜堤の捨て石方式であった。捨て石で埋め立てても翌日には水没しているという具合で難工事となった。この防波堤建設では青野回漕店、森実組、丸亀回漕店の3社が共同で海上輸送を担当した。四阪島から鍰を、瀬戸内海の島しょ部から採石を艀に積み、お手玉配船した。四阪島には青野回漕店から塩崎喜代親(元取締役)が駐在して配船に当たった。昭和12年12月には新しく築造された東西両堤防の灯台が点灯され、10,000トン級の大型船が入港できる近代的な工業港に生まれ変わった。
 この港湾は住友系企業の私的港として運営された。
 
 

 

 
第7光輝丸(昭和11年)
第7光輝丸(昭和11年)

新居浜築港の防波堤と灯台(左)昭和12年
新居浜築港の防波堤と灯台(左)昭和12年

住友への骨材納入始める

 堤防埋め立て工事がきっかけとなって青野回漕店は住友別子鉱山への骨材納入を始めた。鉱山の坑内用資材、海岸部の建設用資材として、コンクリート用の砂は越智郡の砂浜から運び、河川バラスは西条の中山川、福山の芦田川、長浜の肱川から機帆船で輸送し、かなりのシェアを占めるまでになった。
 昭和12年、青野回漕店から青野運送店に社名を変更した。本業の回漕業務に加えて自社船の増加、埋め立て工事、骨材納入など船を使用した仕事の範囲が拡大してきたためで、心機一転の意味も含まれていた。
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青野海運グループ史

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