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第二章 始動期(大正)タンク船の開発に心血注ぐ

1、2回とも苦い経験味わう

硫酸の需要増加に対応

 大正12年9月1日、関東大震災が起こり、経済は混乱し、物資も欠乏した。農家では肥料が手に入らなくなり、関西の肥料製造業者に注文が殺到した。住友肥料製造所ではフル操業して、安定的な供給に努めた。この好況も震災後の復旧が進むにつれて、また元の不況に逆戻りしていった。肥料向けの硫酸も次第に需要は減っていった。しかし、この頃から染料向け、とくに硫化染料用の新たな需要が増えていった。また、流行し始めていた人絹製造用の濃硫酸の需要が伸びてきた。住友肥料製造所はこの機会をとらえて、その製造と販売に力を入れ、まず、ハルトマン式煮詰炉1基を増設し、大口需要家への直接販売の道を開いた。さらに輸送の合理化を図るために鉛張りタンク船の使用を試みた。
 この硫酸タンク船の運航を行ったのが青野回漕店だが、これがわが国で初めての無機化学薬品のタンク船(薬槽船)輸送だった。しかし、結果は失敗に終わった。
 「大正13年、硫酸の需要の増大に呼応して大量輸送(夕ンク船撒積み)を計画し、玉島より『二神丸』を用船して試作したるも,不幸にして御代島沖にて横波を受け、タンクに亀裂を生じ、沈没した。雄図空しく不成功に終わった」
──と「青野海運の沿革」に記している。
 物質は無機物質と有機物質に二分される。有機物質とは炭素を主体とする化合物(一酸化炭素、二酸化炭素、炭化物などは除く)のことで、無機物質とは、それ以外の金属およびその化合物のこと。その無機物質を扱うのが無機化学である。薬槽船は硫酸をはじめ苛性ソーダ、塩酸、硝酸、液安などを対象に輪送するもので、用途や需要先も多種多様である。
 
 

 

 
 関東大震災
関東大震災(朝日新聞社提供)

大正初期にはビン詰め輸送

 無機薬品の代表格である硫酸の海上輪送が始まったのは大正時代に入ってからである。住友肥料製造所では硫酸を肥料製造用とし、大正5年から鉛室硫酸をビン詰めにして販売を始めた。これに伴って海上輸送も行われた。
 素焼きの水ガメのような45リットル入りの陶製容器に硫酸を入れて木船で運んでいた。積み降ろしなどの荷役は全て人力だったが、容器が素焼きで弱いだけに航海中や荷役中にビンが割れて船乗りや作業員がやけどをしたり、船底を焼いたりした。洩れた硫酸によって衣服かぼろぼろになるのはしばしばで、海上に大量に流れ出し、魚がたくさん浮き上がったこともあった。
 このように硫酸の輸送は危険でほとんどの業者が二の足を踏み、手を出したがらなかった。
 青野回漕店は硫酸のビン詰め輸送を当初から担当し、住友肥料製造所の要請を受けてのタンク船輸送であったが、危険物という認識を持っていた重松と市太郎には相当の覚悟が必要であった。しかし、住友のためという気持ちと住友肥料製造所の技術陣のさまざまなアドバイスが一体となって、初挑戦に踏み切ったものだった。また、大正10年から始まった共同鉱石部の輸送量が次第に減少してきたことへの巻き返しもあった。
 その後も硫酸は染料や人絹向けなどに需要量が増加していった。それにつれて大量輸送の必要性が高まった。青野回漕店はわが国初の硫酸タンク船『二神九』の失敗で苦い経験を味わったが、それで引っ込むような重松・市太郎ではなかった。住友肥料製造所側の指導を受けつつ、タンクの改良に取り組んだ。タンク船による大量輸送を何とか実現しようと今度は球状のタンクを木船に設置して再びチャレンジした。だか、これも途中で事故を起こし船が沈没してしまい、失敗に終わった。事故処理では全く予想外のことが起こった。潜水夫を雇って、まず硫酸タンクを吊り上げ、翌日、沈没船を引き揚げる段取りでいたところ、タンクを吊り上げただけで自然に船がぽっかりと浮かび上がってきた。そのため沈没船を容易に曳航して港に持ち帰ることができた。不幸中の幸いではあったが、それにしてもタンク船の実現は至難だった。当時はこの試みに対して危険視する向きも多かった。
 
 

 

 
事務所前で
 事務所前で(従業員)

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