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文章中に記載されております各企業様の社名は、年代をさかのぼり当時の社名で記載しております。最新の情報と異なる場合がありますのでご了承ください。


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第七章 転換期 (昭和50年代)オイルショックを乗り越えて

内航運送業1号業者へ昇格

 運航船腹の増加に伴い、48年1月には内航運送業1号業者へ昇格(許可番号178)した。1号昇格の資格は、鋼船の運航船腹「5,000トン」が基準であった。 199G/Tの小型船が多い薬品タンク船業者が1号業者の資格を取るのは難しく、大手の数社に限られた。青野海運株式会社の48年4月時点の支配下船腹(社船を含む)は39隻。まだ木船もかなり活躍していた。積み荷の主力はやはり硫酸で船腹量の過半数を占めていた。
 この年の役員人事では取締役・永易吉示、監査役・塩崎喜代親が就任、10月に資本金を8,000万円に増資した。また、この年には重馬の五男で、のち副社長になる青野日美が入社した。東京の大学を卒業後、公認会計士事務所に1年間勤めたところで重馬に呼び戻された。日美の入社で死亡した1人を除いて重馬の息子が4人とも青野海運株式会社またはそのグループ会社に入社した。次男・溥には丸重興産、三男の正と五男の日美が青野海運株式会社、四男の光年は丸重商事の経営を見ることになった。日美は青野海運株式会社では最初経理を担当した。経理は会社の全体像をつかむために一番いい勉強になった。
 入社した頃、まだ祖父の市太郎は元気で出張の折にはカバンを持って随行した。
 「すでに80歳を超えていましたが、毎朝日の出を拝んでおり、ホテルでも朝日の見える部屋を探せといわれたものでした。また、物を大切に、お礼の心を持て、今日、命があるのは有難いことだと思うこと、など心の持ち方や道徳を体にたたき込まれました。」(日美)
 父親の重馬もあまり商売の話はしなかった。嘘をつくな、信念を持って進めと道徳的なことは、しばしば言われた。重馬は生活も質素で、日美は子供の頃に旅行に連れていってもらった覚えは全くないという。親の背中を見て育てという態度であった。「観念の人だから商売する上では矛盾を感じた」が、重馬はこれが『青野流』という信念を崩さず、子供たちにそのスタンスを教え込んだ。

青野 溥青野 溥
青野光年青野光年

青野日美
青野日美


昭和40年中期の所有船舶
品  名 隻数 総トン数 馬力 D/W
 硫酸 15 3,114.97 4,830 4,170
 液体アンモニア 7 2,180.37 3,520 1,220
 液体硫酸バンド 4 364.83  450  282
 硝酸 4 441.32  795  457
 苛性ソーダ 1 170.28  200  75
 メタノール 3 373.61  360  370
 塩酸  1 47.95  90  70
 廃酸  2 242.59  400  250
 安水  1 108.80  120  50
 四塩化炭素  1 169.90  180  145
 

39

7,214.62 11,145 7,089

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