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第三章 激動期(戦前)太平洋戦争で苦難の道

第8光輝丸に徴用指令

 昭和12年7月の盧溝橋事件をキッカケに日華事変は泥沼的な長期戦の様相を見せ始め、軍需物資輸送のため多数の汽船が徴用された。日華事変初期の海運統制は、運賃、用船料の高騰を抑え、造船を促進するのが主目的で、海運業者の主調整的な色彩が強かった。
 しかし昭和13年になると、国民総動員法が公布・施行されて、海運はもとより、国民経済・生活の全てが官僚統制下に置かれることになった。
 軍需物資輸送のための徴用は優秀な船から順次行われ、しかも汽船ばかりでなく大型機帆船にまで及び、青野運送店が苦労に苦労を重ねて建造した『第8光輝丸』も徴用された。徴用は市長名で通知されてきた。昭和13年10月29日付の新居浜市長名での「機帆船徴用に関する件通牒」によると──。
 「今般、標記の件に関し、11月4日~6日までの3日間、今田港において徴用候補船舶の集合検査を実施し、厳選のうえ、徴用採否を決定する旨、その筋より通牒がありました。現下の時局に鑑み、軍徴用の完結に萬遺憾なきよう事前に規程事項および船員を完備し、検査港に相成りたく、この段通牒候也」
──というものであった。徴用に船舶が合格すれば、出発などの諸準備に多忙を極めるため、帰省する暇もないので、出発前に家事整理などあらかじめしておくように、という但し書きもついていた。
 船は一旦、徴用されれば軍の管理下に入り、朝鮮や中国まで軍需物資の輸送の任に当たらされた。乗組員は甲板部3名、機関部3名が必要で、また、徴用船10隻に1人の割合で班長が選ばれた。
 
 

 

 
満州事変・柳條溝・奉天城入西門上から城内攻撃中の日本軍(朝日新聞社提供)
満州事変・柳條溝・奉天城入西門上から城内攻撃中の
日本軍(朝日新聞社提供)

厳格な機帆船の徴用基準

 当時の機帆船の徴用基準は次のようなものだった。
①総トン数60トン以上で、貨物を満載し平水で7マイル以上の速力を有するもの
②内地より外洋を独航できる性能を有し、吃水は10尺以下であること
③船殼は木または鉄製の堅牢なもので、厳しい業務に耐えられること
④機関はなるべく内地製かつ予備品の補充が容易なもので、船体・機関とも当分修理を要しないもの
⑤船舶安全法第2条の規格に従い船殼、機関、排水設備、操舵、係船、揚錨の設備、救命及び消防の設備、居住設備、衛生設備、航海用具を合規の如く完備しておくこと ⑥属具は船舶安全法関係規程に合格のものを完備し、そのほか標準表にないものは備え付けることを要す また、用船契約は第1船舶輸送司令部と締結し、軍の命令にはもちろん絶対服従だった。
 徴用された『第8光輝丸』は中国・揚子江まで航海したが無事に帰還できた。しかし、前方を走っていた船が爆撃を受けて沈没するなど命からがらの航海だった。
 次いで、陸上員や船員達への招集も始まり、青野運送店にも戦争の影が色濃くなり始めた。重馬は体が弱かったので兵役を免れることができた。

第11・第13光輝丸を建造

   青野運送店はこうした時局不安の中でも船腹をどんどん拡充した。昭和13年8月には福羅造船で『第11光輝丸』(64G/T、50馬力)を、10月には『第13光輝丸『(65G/T、65馬力)を大谷造船でそれぞれ建造した。昭和11年には『第7光輝丸』(7月)と『第8光輝丸』(8月)をセットで建造しており、1年置いての2隻建造であった。
 船腹増強は、戦時下で住友鉱業株式会社(昭和12年6月、住友別子鉱山と住友炭礦株式会社が合併して発足)や住友化学工業株式会社が軍需物資の生産に追われ、輸送量が上昇したことへの対応だった。 しかし、それも2年間ほどで統制が強化され、新造が思うように出来なくなり、昭和13年の新造をもって戦前の建造にピリオドを打った。
 昭和14年4月に海運組合法が公布され、11月から施行となった。これは次第に長期化していく戦局に備え、海運業者を各業種別に結成された組合に加入させ、統制していこうというもので、海運業界の一元管理を目的としていた。組合の設立や組合への加入は、原則的には個々の自由だとしながらも、組合の強制設立、強制加入を命ずることができ、組合員、非組合員問わず、組合の統制に服するよう命令できる、などの条件が規定されていた。この組合法によって。大手外航海運業者はじめ、機帆船業者、水上運送業者、海運仲立業者が業種的に組織化された。
 
 

 

 
第十三光輝丸(昭和十三年)
第十三光輝丸(昭和十三年)

電錬工場の石灰輸送、荷役開始

 青野運送店は昭和14年、住友鉱業株式会社からの要請で別子鉱業所の電錬工場の石炭荷役と輸送を開始した。同鉱業所で生産される銅の熱源を供給するためであった。戦時下の軍需物資用に13~14年頃から増産にピッチがかかってきていた。
 石炭の積み取りでは、備後同盟の三本マストの帆船を5~6隻用船し、若松~新居浜間を運航した。1航海で1隻に約200トンの石炭を積んだ。若松には所属船の配船や荷役の立ち会いのため出張所を開設し、駐在員を置いた。

大阪出張所を新築・開設

 また、この年には住友化学工業株式会社の要請により、大阪出張所(大阪市此花区春日出町上1丁目)を新設した。配船乗務や荷役の立ち会い、新居浜本店との連絡などを主な業務とした。初代の所長は塩崎喜代親(元取締役)であった。
 昭和15年2月には海運統制令が公布された。国家総動員法に基づいて、船舶の貸借、運航委託の命令、航海・運送の制限・禁止命令、造船・外国用船の許可制、船舶の価格、運賃・用船料の公定などを定めたもので、海運・造船全般にわたっての統制はますます厳しくなっていった。
 海運組合法によって、地区と機帆船組合の設立が決まったのは昭和15年5月であった。全国に約2万隻あるといわれた機帆船は、それまではほとんど無統制に近かった。全国の機帆船業者を34地区に分け、まず地区機帆船海運組合を設立することになった。その34地区とは、南部北海道、東部北海道、西部北海道、東北、東京、千葉、神奈川、新潟、静岡、愛知、三重、北陸、大阪、京都、兵庫、和歌山、岡山、広島、山口、徳島、愛媛、香川、土佐、関門、若松、博多、長崎、有明海、熊本、鹿児島、日向、大分、沖縄であった。船どころ愛媛地区の所属船は6万1,226G/Tだった。地区機帆船海運組合の結成が終わると、中央続制団体として『全国機帆船海運組合連合会(全機連)』が9月に設立された。これによって、戦時下の海運界は大型汽船の『日本海運協会』、小型汽鉛の『近海汽船協会』、機帆船や帆船、曳船などの『全機連』の3つの海運組合に集約、統合された。
 政府主導による輸送統制は一段と強まり、政府指示物資の輸送が全機連に指令されるようになった。全機連はこれを受けて輸送内容に応じて各地区に振り分け、実際の輸送に当たらせた。

艀を購入し製品輸送

   石油の消費規制も強まってきた。輸送燃料の逼迫に伴って昭和15年、青野運送店は住友化学工業株式会社の要請を受けて、大量輸送が出来る艀を購入し、肥料や薬品などの製品輸送を始めた。住友化学工業株式会社の白石伍録運輸課長と青野運送店関係者が若松と大阪に出向き、『イ号』(150D/W)、『ロ号』(150D/W)、『ハ号』(170D/W)、『時栄丸』(120D/W)の4隻を購入した。これに加え、住友化学工業株式会社の『住化11号』、『12号』、『13号』、『18号』、『20号』、『23号』の6隻を受託船として運航し、大阪、多度津、坂出、糸崎などへ配船した。そのほか『word011号』、『2号』、『3号』、『常幸丸』を用船した。曳船も大阪津畑工業の『第7卓成丸』、『第13卓成丸』をチャーターした。当時の連航船腹は14隻・2,780D/W。内訳は、自社船が4隻で590D/W。用船と受託船が10隻で2,190D/W。これによって青野運送店は艀運送のノウハウも蓄積した。
 
 

 

 
惣開港のはしけ
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