新居浜港の開港問題は、関係者の間で前々から検討が始められていた。新居浜港は戦前から住友別子鉱山が行った臨海工業用地埋め立て工事の結果として築港され、住友の私港としての性格のもとに運営されてきた。しかし、戦争によって途絶えていた貿易が再開され、海外との取引を発展させていくために開港の機運が高まり、新居浜市、新居浜市議会、新居浜商工会議所が住友系企業と協議しながら開港の準備を進めた。そして、昭和22年8月、制限付き民間貿易再開のあと、9月に新居浜税関支署も設置された。 市太郎や重馬は市議会議員、商工会議所議員の立場から新居浜港の開港には賛意を表明し、活動を続けてきた。市太郎の議員歴は戦前からで昭和12年12月の新居浜市議会第1期選挙で6位当選(市議会議員30名)して以来、2期10年間、市議会議員をつとめた。戦後初の市議会議員選挙となった第3期(昭和22年4月)では重馬にバトンタッチ、重馬は当選した翌年2月には副議長の重責を担うことになった。市政の向かうべき方向、新居浜の都市基盤づくりのために真剣な努力を続けていた。新居浜港の開港も地域振興の一環として重視していた。市太郎や重馬が市議会議員となったのはともに深い信仰を基盤とした地域への貢献からであった。名誉心はともになかった。特に重馬は体が丈夫でないにもかかわらず、海運業を営むかたわら6期・24年間も市議会議員、それも3年間は市議会議長の重責を努めたのは驚嘆に値した。
|